伊武真田太平記 第1巻

 この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にしたフィクションです。基本的には配信の内容に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

1 伊武真田家の誕生

 1614年、武田氏から独立し、信濃一国の支配を手中に収めた真田家であったが、四方を敵に囲まれた独立当初は内政外交ともにままならぬ状況にあった。真田昌幸は地元の有力国人衆である伊武ラヒムと手を組み、伊武真田家として信濃一国を治めていく道を選んだ。

 伊武は土木作業や治水工事での貢献・指導の経験から周囲の国人衆からも一目置かれた存在であった。このように伊武が信濃の内部事情にもよく通じていたことは、真田家の初期の発展の要因の一つである。

 伊武真田家にとっての最大の仮想敵は、かつて自らが仕え、裏切った武田家であった。武田家にとっても、真田に乗っ取られた信濃を取り返すことが求められたが、南の今川や石田の存在を無視することもできず、真田は信濃の統治で手一杯であるだろうから戦うまでもないというのが武田軍の総意であった。

 信濃一国を失ってなお落ち着き払った武田軍の態度は、独立したばかりの伊武真田家を逆に動揺させた。そのため、伊武真田家は武田の宿敵でもある上杉と交渉し、支援や同盟の締結を求めた。

2 上杉軍との戦い

 一方の上杉は、真田家の独立は武田家の一時的な内紛に過ぎず、時が経てば武田は真田を破って信濃の支配を奪回するだろうと考えていた。また、武田を仮想敵としていた伊武真田家が、信濃南部の国人衆を懐柔する一方、信濃北部の国人衆への懐柔を怠っていたため、彼らは戦いが起きた場合上杉方につくことを約束していた。武田家よりも先に信濃を奪い、甲州進出の足掛かりとしたい上杉軍は、こうした優位を背景に信濃征伐の決意を固めた。真田からの交渉を早々に打ち切り、1615年10月、上杉謙信自ら伊武真田家を討つべく出陣する。

 伊武真田家は、当時出しうる最大の戦力でもってこれを迎え撃った(葛尾城の戦い)。城下での会戦は消耗戦となり、上杉軍は葛尾城の攻略を断念して撤退した。この戦いは真田信幸、幸村兄弟や伊武ラヒムおよびその配下のメリー金蓮華、フレンなどが一軍の将として参戦した最初の戦いである。

 この戦いでの勝利は、周辺諸国に大きな影響を与えた。戦いに敗れた当の上杉家は、これ以降真田家に一目置き、後に同盟を結ぶこととなる。上杉家は南下から日本海に沿った西方進出へと路線の転換を強いられた。また、飛騨の姉小路家はこの後に真田家と同盟を結び、神保家が立て籠もった高原諏訪城の攻略では真田軍に兵糧を送るなど協力している。現代に伝わる多くの史料が、上杉軍とのこの一戦によって、伊武真田家の武田軍からの独立が名実ともに認められたことを示している。

3 高原諏訪城の攻略と村上家との戦い

 1616年2月には村上家の村上義清隊およそ1500の兵が深志城を攻めるが、これを難なく撃退する。伊武真田家は信濃でその地位を不動のものとしつつあった。

 葛尾城の戦い以降、伊武真田家は上杉家との関係修復に努める。その例の一つが、神保家が立て籠もる高原諏訪城の攻略である。神保家は上杉家の侵攻を受けて壊滅状態にあったが、当主の神保  らを筆頭に高原諏訪城に立て籠もって最後の抵抗を続けていた。上杉との同盟を確かなものにしたい真田と、山奥まで兵を派遣することができない上杉の思惑が合致し、1616年11月、伊武真田家による高原諏訪城の攻略が始まった。

 真田の拠点である深志城からの遠征は、冬の行軍の困難や兵糧の問題もあって困難なものであったが、高原諏訪城自体は真田家が想定していたよりもはるかに兵力や守備力で劣っていた。遠征の負担を考慮した伊武は真田幸村、フレンの率いる両軍に帰還を命じた。

 一方、この機に乗じて信濃攻略を目指したのが村上家であった。村上家にとって最も近い城である深志城へ向けて村上家は2部隊を派遣して攻略に当たった。しかし、深志城の包囲中に、真田幸村・フレンの両軍が遠征から一足先に帰還する。これは、前述の伊武の判断であり、村上家の出陣とは関係のないものであったのだが、結果的にこの判断が深志城と真田家を救うこととなった。退路を断たれた村上家の両軍は深志城攻略を諦めて北上したが、信濃を脱出することなく真田軍とフレン軍に討たれた。

 高原諏訪城から帰還した伊武は、即座に村上家を侵攻すべきと主張した。上杉との協力関係を強固なものとし、北方の憂いを除いた伊武真田家にとって、本格的な勢力拡大を企てたのである。木曽福島城と高遠城の攻略が検討され、城の規模がより小さい高遠城を目指すことが決定。1617年7月、伊武ラヒム、真田昌幸ら4隊が高遠城に向かって出発した。

 高遠城では村上義清隊を打ち破った伊武真田軍であったが、村上家と同盟関係にある今川家が福島正成隊を派遣したことで状況は緊迫する。高遠城前で甲斐方面から回り込んできた福島隊を打ち破った伊武真田軍だったが、これによって高遠城の包囲は遅れた。さらに木曽福島城から新たに村上軍3500の兵が迫ってきたため、伊武真田軍は全軍を退いた。

4 上野争乱

 村上家との戦いが不首尾に終わった伊武真田家は、村上家を引き続き攻めるべきか、方針を転換して長野家に攻め入るべきかという選択を迫られていた。伊武は、長野家が関東方面での戦いに兵力を割かれていることに注目し、1618年3月、国峯城を目指し出陣する。

 このころの長野家は関東方面での戦いに苦戦し、疲弊していた。そこへ伊武真田家の国峯城侵攻と成田家の平井城侵攻が重なり、戦況は一気に長野家不利へと傾く。これを受けて長野家と同盟を結んでいる足利家も兵を派遣。ここに、東国の諸勢力が入り乱れる上野争乱が幕を開けた。

 真田昌幸率いる1500の部隊は同月中に国峯城へと到着し、和田業繁隊を打ち破ると、そのまま伊武ラヒム隊と合流し、国峯城の包囲にあたった(国峯城の戦い)。国峯城の陥落は時間の問題だと考えた伊武真田軍は、後発のフレン隊1700の軍勢を箕輪城へと差し向けた。同時に、上杉家に箕輪城の北に位置する沼田城攻略を依頼した。

 国峯城を伊武真田軍に包囲され、平井城も成田軍に攻められている長野家であったが、その本城である箕輪城の陥落だけは避けなければならなかった。長野家は地元の国人衆らと合わせて3500の兵を箕輪城に展開。箕輪城の早期攻略が困難であると判断した伊武真田軍は、国峯城を陥落させてから軍をまとめて箕輪城攻略を目指すことを決めた。

 1618年4月、国峯城が陥落した。ここを新拠点とした伊武真田軍は改めて箕輪城攻略を開始した(第一次箕輪城の戦い)。長野軍は長野業正隊が中心となってこれを迎え撃ったが、伊武真田軍の戦力に圧倒され、5月には籠城戦を強いられた。同時期、伊武真田家からの要請を受けた上杉軍が沼田城攻略を開始した。

 伊武真田軍は国峯城に最小限の兵力を残し、全軍を挙げて箕輪城包囲に当たったが、長野家の本城である箕輪城の守りは強固で苦戦を強いられていた。6月には厩橋城を拠点とした長野軍の反撃を2度受けたものの、こちらはフレン隊が包囲を解いて対応し、長野軍は厩橋城へと撤退している。とはいえ、依然として箕輪城包囲の背後に不安のある伊武真田軍にとって、箕輪城攻略は一刻も早く達成したい目標であった。それでも、7月には上杉軍が上田城を攻略しており、戦いは伊武真田家の圧倒的有利のうちに展開していた。

 しかし、長野家の要請を受けた足利家が悪魔でびる率いる2500の兵を派遣したことで、状況は一変する。でびる隊は唐沢山城・厩橋城を経由して長野軍と合わせて4000まで兵力を拡大し、8月中旬には箕輪城を包囲する伊武真田軍の背後に迫っていた。箕輪城攻略で疲弊し、兵数でも劣っていた伊武真田軍は箕輪城の包囲を諦め、沼田城、国峯城、そして信濃国内へと兵を退いた。

 しかし、伊武真田軍は箕輪城攻略を諦めたわけではなく、9月には上杉軍に箕輪城攻略の助力を要請している。10月には上杉軍からの1000の兵が箕輪城の長野・足利連合軍(長野業正と悪魔でびるを将とする)を挟撃した。しかし、同時期に国峯城が成田軍に攻められていたため、伊武真田軍は上杉軍と協力して戦うことができなかった。そのため、戦いは上杉軍の敗北に終わったが、悪魔でびる隊に一定の損害を与えることには成功した。

 悪魔でびる隊は箕輪城防衛のために西上野地域を遊撃していた。成田軍を撃退した伊武真田軍は、再び箕輪城攻略を目指し、国峯城、沼田城から兵を出した(第二次箕輪城の戦い)。1618年11月、伊武真田軍は箕輪城にて長野・足利連合軍を挟撃する。戦いは苛烈を極め、特に伊武真田軍の損害は大きかった。しかし、伊武ラヒム率いる1400の兵が到着すると、兵力で劣るでびる隊は撤退した。

 同時期に、厩橋城では長野家の援軍に来た佐竹家の竜胆尊隊が成田家の甲斐姫率いる部隊を撃退した。さらに、東堂コハク隊も上野入りを果たしていた。しかし、佐竹家の支援はあくまでも成田家との戦いに限ったものであった。竜胆・東堂両隊は箕輪城を無視して平井城を攻略する。

 1619年1月、伊武真田軍は再度箕輪城を包囲する。秋の補給を経て兵糧、兵力ともに充実していたこともあり、箕輪城は2月に陥落した。この後、伊武真田家は関東進出を見据えて、佐竹家との関係を重視することになる。勢力を拡大する北条や、因縁のでびる隊を有する足利家、そして武田信玄率いる甲斐の武田家など、伊武真田家の前には多くの敵が立ちはだかる。

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