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日本で議論できないのは、新選組から始まっている?

こんにちは、サカモトです。

週2回月曜日と木曜日にnoteを書いています。今回は、木曜日の記事になります。

今日はなんだか疲れています。できれば軽めにしたいと思っていますがどうなることやら。とんでも仮説です。

さて、僕は学生時代、高校生の頃、司馬遼太郎が大好きでした。ずっと、司馬遼太郎を読んでた気がします。

そういえば、このnoteでも本の話を結構書いてますが、これだけ本を読むようになったのも、高校時代に司馬遼太郎に出会ったことが大きかったです。

特に幕末の頃の話は良くて、その中で新選組の話はとびきりワクワクしたものです。とってもよかったのです。


それが、数年前に「燃えよ、剣」が映画化されたのです。その映画はとてもよい出来だったのですが、見ていて疑問になっていたことがムクムクと出てきたのです。


それは何かというと、幕末の京都では人を切ったり切られたりということが繰り広げられているわけですね。それは超危険じゃないですか、おちおち歩いていられないというか。

日本は昔から治安のいい国だと思っていたのが、そうではなかったのだなとあらためて認識したわけです。そして、どうして斬りあっているのだというと、考え方の違いらしいのです。

当時の日本は、外国人を受け入れるのかどうか、で二分されていたわけです。難しい言葉でいえば、攘夷派と開国派です。攘夷というのは、外国人日本に入ってくるなんて許せんということですね。

それでもう少し詳しく言うと、攘夷派が天皇を推していて、開国派が幕府を推しているという構図です。新選組は幕府派で開国派なわけです。

京都にいた天皇派で攘夷派の志士たちを問答無用でバッタバッタと斬って捨てていたわけです。池田屋事件では、宴会をしていた武士を突然押しかけていって斬りまくるわけですからね。

考え方の違う人を殺してしまうというのは、民主主義に反しますよね。もちろん、当時民主主義の概念はないのは知っていますが、問答無用で斬りまくるのはどうなんだろうと思うわけです。


なぜそんなことを書いてきたかと言うと、最近、共同親権についてのXの投稿を見ていたからですね。Xの悪いところというか、賛成派も反対派もそれぞれがいがみあっている様子を見て、なんだか双方が斬りあっているなと感じました。言葉の剣で斬りあっていますよね。

民主主義の基本は、考え方の違いがあっても、相手に対してリスペクトの気持ちを持つことだと思うのです。なんとかできないものかと思ってしまいます。

それもこれも、少なくとも新選組の頃から続いていると思えば、納得です。命のやり取りがなくなっただけでもマシなんですかね。

というわけで、以前は新選組のことをかっこいいと思ってましたが、そう思うのはやめました。やっぱり考え方の違いで斬るなんて、なんて野蛮なんだと思うようになりました。

やっぱり大事なのはリスペクトですよ。

余談

さて、最後にAIネタです。AIイラストだけでなく、AI動画にも凝っています。楽しいです。


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