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【ふしぎ旅】柴橋の宝塔

 新潟県胎内市(旧中条町)に伝わる話である。

 昔、柴橋に大沼治朗之助正教(おおぬまじろうのすけまさのり)、宮村隼人勝常(みやむらはやとかつつね)、佐久間権太夫頼房(さくまごんだゆうよりふさ)、五十嵐馬之進祐隆(いからしうまのしんすけたか)、大塚三五兵衛光弘(おおつかさんごべいみつひろ)という、武力、財力ともにすぐれた五人の男がいた。

 この村は裕福であったが、こうした強い人達がいるおかげで盗賊に襲われることはなかった。

 そのころ信州の木曾にさくもくの善右衛門という盗賊の親方がいた。そこに、術迦の荒冶、猿迦の運内、稲妻の源太、鼠走りの藤太という子分がおり、さくもくの四天王と
いわれていた。

 この盗賊一味は柴橋の豊かさを聞き「放っておいては盗賊の名折れ」とだと言ってある日、小桜峠で日暮れを待ち、夜になってから柴橋集落を襲った。
 この時、柴橋の5人が現れたちまち荒冶、運内、源太を切り殺してしまった。
 恐れをなした残りの2人は命からがら逃げ去った。

 翌日、5人衆は熊野若宮神社へお礼参りに行ったところ
 「お前達は盗賊を撃退して村は安泰になったが,殺された3人は無念だったろう。だから死んだ者を弔ってやれ」という、神様のお告げがあった。
 そこで、盗賊の死体を持ち帰り、柴橋の石塚という所に葬り、そこに宝塔を建て一乗坊というお坊さんを招いて供養してやった。
 今もこの宝塔のお祭りは神主ではなく寺の住職が行うという。

小山直嗣、『新潟県伝説集成下越篇』

 

柴橋の宝塔

 さて、単純に言えば、盗賊退治の話となるのだが、それにしては、登場人物や地名などがかなり詳しく、他の伝説とは違い、何かしらのモデルとなった話があるのではと思う。

 この辺りは奥山荘という荘園で、柴橋館という館跡も近くにあるのでそれにも関係している者なのかもしれない。

 盗賊側にもきちんと名前があるのだが、この”さくもくの善右衛門”とやらは、調べても分からず、そもそも”さくもく”というのが、どういう意味があるのかが分からない。

 ともあれ、不思議なのは、これだけに人物名や地名がハッキリしているのに、やけにアッサリと伝わっているということで、もう少し物語として肉付けされてもよいだろうと思うのだ。

 英雄軍団対盗賊軍団の戦いとして、例えば小桜峠で盗賊が日暮れを待っているシーンなどは、どうやって攻め込むか作戦を立てている盗賊と、それを知って守りの準備する英雄たちという流れなどありそうなところだが、 あっさりと、村を襲う盗賊を殺してしまうというところで話が変わる。
 話の展開が大味すぎるのだ。

 これでは、わざわざ木曽から新潟まで出てきた盗賊たちに対して、あまりにも雑やしないだろうか
 芝居であれば、盗賊たちの名のりのシーンだけで一幕ありそうなものだ。

 そう、この話、もともとは芝居であったのではないかと思わせるほど、細部はしっかりしている。
 そのあらすじだけが伝説として残っている感じなのだ。

 たとえば、この話のシーンごとに絵を書き、台詞台本などが別にある(あるいはその日の気分で即興で)話の肉付けをしていくという紙芝居があれば、昔の子供達が大好きな話になりそうだ
案外と、そんなふうにして、現実にあったことが物語となり伝えられているのかもしれない。

柴橋の宝塔

  さて、この宝塔であるが、実際に探してみると、なかなかに難しい。
 住宅街の中、神社のすぐわきに建物がある。
 田舎であるとよく風景であり、神社の社務所でなく、その集落の集会所となっていることが多い。
 ところがその中に、この柴橋の宝塔があるのだ。私が訪れた時は、冬囲いをしていたので、直更に分かりにくかった。


柴橋宝塔脇神明社

 石塔は石造り、三重塔である。建物の一角にあり、石塔を守るだけの建物にしては広すぎるのではないかという気がする。

柴橋 宝塔

 お祭りをするというので、祭礼をするために広いスペースが必要なのであろうか。
 あるいは、集落全体のお祭りをする意味で、まさに集会所的な意味合いがあるのかもしれない。

大桜峠

 伝説にある、小桜峠は新発田、加治川方面より、柴橋集落に向かう途中にある大桜峠あたりではないかと思う。その近くに小桜なる表記の看板があった。
 長野方面から来ているのなら、こちら方面はかなり遠回りになりそうな気もするのだが、盗賊にも盗賊の事情があるのだろう。

熊野若宮神社

 お礼参りをしたという熊野若宮神社、年末年始あたりは今もあり多くの参拝客で賑わうという。町の中に荘厳としてあり、かつてはもっと賑わっていたのだろうということを感じさせる風格がある。

熊野若宮神社

 盗賊を弔ってやれというお告げをする神様というのも、なんとも懐が広いが、あるいは盗賊では無かったかもしれない。
 墳墓が作られるくらいに慕われた人の塚が、それを伏せて祟りを鎮めるための塚などとされている例はいくつでもある。
  この柴橋の宝塔も、地元では”ほうとう様”と呼ばれているくらいなのだから、単純に盗賊の墓では済まないような気がする。
 
 先にも述べたが、わざわざ木曽の山奥から、越後まで、盗賊がくるにしては、随分と距離がある。
 もしかしたら盗賊ではなく中央政府でそれと地方の武士の対立、紛争があったのではなかったろうか。
 わざわざ、芝居がかった名前にしたのも、この話がフィクションであることを強調するためにあえて、そうしたのではないだろうか。

 そういえば、建仁の乱での越後の反乱軍の武将、板額御前は場所こそ違うが、胎内の熊野若宮神社あたりの出身である。
 また、板額御前が守った鳥坂城は木柵と、空堀には逆茂木(さかもぎ)が立ち並らび守っていたと言われる。
 ”さかもぎ”と”さくもく”という語感は似てなくもない、
 
 なにか、その辺りの中央軍と地方の対立のもやもやが、この一連の話の背後にあり、宝塔が作られたのではないか、そんなことを考えさせる。

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