かつてかっこよかったものしか今ダサくなれない。将来ダサくなるものをいくつか予言する。

古い流行が古臭く見えたりダサく見えるのはかつてかっこよかったもの、もしくは少なくともカッコつけよう、アピールしようなどの主張や意志があったものに限られるように思う。

例えば80年代や90年代のどぎついメイクが今見るとダサく感じるのは力の入り方が古いということ、アピールや主張のやり方が今のやり方とはズレているということなのだ。だが、そこにはしっかりとアピールや主張の意志が含みこまれている。
しかし前の時代をダサいと感じること自体、現代の側がその時代と差をつけようとする意志があることなのだ。これがさらに時代を経てそのダサさが忘却されたり、差をつけようとする意志さえなくなると今度はダサかったはずの時代はレトロなものとなり、再びその時代に回帰したりする。こうして時代を経て◯◯年代ブームのようなものが出現することもある。

逆に力が入っていないものは特にダサくもなれない。そこにかっこつけよう、アピールしよう、などの主張や意志がきちんと入っていないものは将来においてダサくさえなれない。しかし、それは浮いたり目立ったりしない反面、一般的であり、そのレイヤーに埋没してしまっている。
抜け感という言葉があるが、これは対同年代であっても自身の力みや過剰な主張、アピールへの意志が希薄であることを示すことで、ダサくなったり、相手に引かれたりするのを回避している。全身キメキメじゃないという「アピール」であり、これ自体主張しているとも言えるのだが…。

おじさん構文なるものがあるようだが、これもまた対若者世代へのおじさんなりのアピールの意志があるからこそそのズレが顕在化しておじさん臭くなれるのだ。若者世代とコミュニケーションをとろうとするのに、若者に媚びたり、若者と同じ感覚であることをアピールしようとしてできもしないことをやろうとしているのだ。
もしくは自分の若者時代の、「こういうのがイケてるはず」的なものを当てはめてしまっていることもあるのかもしれない。昔の流行が今はダサいという最初の話と全く一緒だ。人間何をかっこいいと思うかは思春期や青春時代に決まってしまい、それをアップデートすることなく一生思い続けるものなのかもしれない。だから「自分の時代当てはめ」がズレを生じるのは必然ということになる。
中高年は若者からどう見えているのか冷静に判断し、線を引かれているのであればそれを受け入れて若者に合わせようなどとしないことだ。「自分はおじさんだが若者に胸襟を開いている」ということだけで充分なのだ。若者から見て自らが異質な他者として対峙していることを前提として向き合い、余計なアピールなどせずに向こうから見て中高年側の像に「余白」を残していれば、相手は都合よく想像して、ときには「先方」からの何らかのお求めがあるかもしれない。

さて、タイトルにもある将来ダサくなるものの予言だが、それはスノーだ。
なかなか写真を撮られるのに自信がもてない人も大きく加工され、それどころか動物のシルエットになる。もともと写真好きな人以外にも、「これなら」ということで嬉々として写真を撮っている。ここには「正味の自分ではあまり写真は得意ではないが、本当は写真撮るのを楽しみたい」という意志が垣間見え、しかも動物のシルエットなんていう数年もすれば切り替わる具体性を背負ってしまっている。
10年後20年後、若い頃のスノーの写真を子供に見せれば笑われること間違いないだろう。

また美容整形技術が進歩すれば、不自然なゴテゴテの整形顔も将来「昔はこんな人もいた」なんて言われているだろう。美への執着という意志がそこにあるのは言うまでもない。

一部のアニメ、漫画も将来は気持ち悪がられていることだろう。三次元世界たる現実世界への自身の不能性を二次元世界に投影させ、自意識を発露させる意志が示されているものもあるからだ。

さて、意志の発露がダサさを招くという話をしてきたが、しかしそれの何が悪いのだろう。意志の発露は自分という存在のコアから発する生命の発露、「自分はこうしたい、こうありたい」という主体性の発露なのだ。中立的、中性的、公正な表現なんて人称性はなく、誰でもないとも言える。
異なる世代を含めた異質な他者からどう見えるかだけを考えて、「ハズさない」のは単に他者と渡り歩くためのテクニック論だ。そんなことだけをして生きている自分が利口だという「アピール」やら「意志」やらがそこまで「かっこいい」とは思えない。

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