大東亜戦争ポスト削除問題。問題は歴史認識ではない

陸上自衛隊の部隊が公式SNSで「大東亜戦争」という表現を使ったことが朝日新聞によって批判的に取り上げられ、削除に追い込まれた。
投稿内容は「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島の慰霊に参加しました。祖国のために命を捧げた日米の英霊のご冥福をお祈りします」という当たり障りのないものだ。戦争美化などは特にない。

前半では歴史認識の問題ではないということについて、後半ではそれじゃあ何が問題なのかについて論じたい。
この記事はむしろ歴史の知識がない人やそこまで歴史に興味がない人に読んでもらいたい。


朝日新聞は「政府が公式文書に使っていない表現だ」「戦後GHQによって使用を禁じられている」というのを根拠に批判しており、「侵略戦争を正当化する」という「声がある」とでも言いたいのだろう。
ちなみに「大東亜戦争」は戦争を美化、肯定する立場ではなく、反省する文脈でも遣われるという。
この朝日新聞のやり方に対して産経新聞は「言葉狩りに屈するな」という論調だ。
防衛大臣や官房長官は「表現がダメなわけではないが、普段使ってない表現なので変えました」という趣旨のことを言っている。
組織のトップである防衛大臣が「単に普段遣ってないというだけで問題ない」としているのに結局は大東亜戦争の表現を削除する結果となったのだ。

今回のように「先の大戦」についての言論に対しては、「自衛戦争だった」とか「侵略戦争だった」といった「歴史認識」をもとにした議論がなされる。
以下、史実の話も出てくるが、具体的内容がわからなくてもその部分は適当に読み進めてもらって構わない。タイトルにあるようにむしろ「歴史認識の話ではない」というのが本記事の趣旨だからだ。

「当時欧米列強にアジアは植民地化され日本にも危機が迫っていた。白人による人種差別や非人道的な植民地支配に抵抗すべく日本は立ち上がった。アジア解放の大義をもつ自衛戦争だ」という言説もあれば「大東亜共栄圏の盟主を日本が名乗ってアジア諸国を侵略した侵略戦争だ」という言説もある。
これらに対して「アジア諸国への加害の歴史を無視している」とか「当時の大きな世界史の流れを見ていない」などの反論があり、収集はつかない。

そもそも歴史的事実の確定の仕方さえコンセンサスは難しい。例えば当時の公文書にあればそれを事実と認めるとしよう。「自衛戦争派」は「自存のために開戦する」と公文書に書いてあると主張する。「大東亜戦争の呼称は閣議決定されている」とも言うことだろう。
一方で「アジア諸国を統治する上で、インフラ整備までした日本は、欧米諸国のような非人道的な統治をしておらず、台湾や朝鮮はいわゆる植民地ではない」と主張する。しかし「昭和天皇がこれらの地域を日本の植民地と発言している」とする公文書も存在することに対してはどう答えるのか。これらを両立させるロジックは「昭和天皇が植民地という言葉を誤解して遣っている」以外ないだろう。
侵略戦争派のダブルスタンダードや捏造だって山ほどあるわけでイチイチここでは取り上げない。

何が言いたいかというと、事実でさえこのようにきちんと決まらないわけで、仮に決まったとしてもその評価や歴史的意義となれば、どの事実をどれだけ重視するのかまで考えなくてはならず事実以上に定まらない。

そしてどの表現を遣ってはならないかを決めるには当然「評価」が関わってくる。「侵略の意図をごまかす『悪い』表現だ」というように。
少なくとも言えることは「大東亜戦争はダメ」派は先の大戦を「侵略戦争だ」と断定していることだろう。さらに「大東亜戦争という言葉は侵略を正当化する表現だ」という前提もある。

事実にせよ評価にせよ反論、再反論、再々反論というように決着はつかず、しかも政府や防衛省は普段遣っていないというだけでダメとも言っていない。GHQがダメだと占領当時言っていたというのも「だから何?」というレベルだ。
つまり表現をダメだとする明確な根拠はない。
表現の自由を原則とする以上、ある言葉を遣うべきではないとする根拠はそう主張する側が提示すべきなのは言うまでもない。

このテーマについてAbemaTVで討論が行われていた。佐々木寛さんという大学の教員が出演していたが、「大東亜戦争という表現は歴史を直視していない。自制すべき」など、なぜ「太平洋」は良くて「大東亜」だとダメなのか二回の発言機会の中で、全く説明になっていなかった。
地上波で「大東亜戦争」が遣われることは少ない。Abemaが議論の能力が著しく低い「太平洋派」をわざと出演させることで、地上波とタッグを組んで「両論併記」を実現しているのかとさえ思う。


今回の自衛隊の投稿で問題だと私が思ったのは、番組内でも言われていたように、「太平洋戦争」が割りと一般的である現状で、「大東亜戦争」をあえて遣う理由が一般の人にはわからないということだろう。短い文章の中でその説明はなされていない。
ここからがこの記事の後半で、何が問題だと私が考えるかについてだ。

この投稿そのもののまずさは歴史認識ではなく、単にプレゼンテーションとして、コミュニケーションとして一般的な表現を遣わないならば説明があってしかるべきなのにそれがないというだけの話だ。

歴史認識などに特に興味ない人の中には、下手をすると「大東亜戦争って何?太平洋戦争とは全然別の戦争なの?」と疑問を持つ人もいるかもしれない。
実際太平洋戦争は真珠湾攻撃に始まるのに対し、大東亜戦争は盧溝橋事件に始まるので同一ではない。しかし大東亜戦争はアジアでの戦闘と太平洋での戦闘を合わせたものだから、太平洋戦争は大東亜戦争に含まれる。
そして硫黄島は地理学上、アジアではないから「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島」という表現も「太平洋戦争最大の激戦地硫黄島」という表現も間違いではない道理となる。
この話もまあ瑣末な話だ。では最大の問題は何か。

それは「一般的、常識的」とされない表現はイチイチ「説明責任」という負荷を課されるということだ。

朝日新聞が言葉狩りもっと言えば言論弾圧のようなマネをするのがけしからんというのは言うまでもない。ダメな根拠を提示できないのだから。
逆に「大東亜戦争という表現の何が悪いんだ」という主張をする人は、一生懸命「閣議決定された言葉だ」「アジア解放の意味を忘却させるな」などと大真面目に言ってくる。しかしまさに大真面目に、問題的なこととして議論をしなくてはならないということ自体が一般の人を遠ざける。
「下手な表現を遣うと怒られるらしい」となってしまうこと自体が本当はまずいことなのだ。
本来は、「ダメな理由がないなら遣っていい」で終了だ。それが表現の自由だ。
Abemaの番組で「無難なのは第二次世界大戦」と説明された。それに対して田村淳さんが「でも無難だから大東亜を遣わないっていうのも何か違う」と言っていた。この淳さんの意見が本質的だ。

「ダメだ」と言われれば「ダメじゃない」と反論したくなるし、真面目な人たちは「きちんと歴史を勉強して反論すべき」なんて言ってくる。たしかにそれが理想ではあるが、「よくわからんから第二次世界大戦にしとこう」となるのが大半だろう。
しかしこれこそが言論弾圧する側の狙いではないだろうか。
薄ぼんやりと、「『普通』大東亜戦争とか言わないだろ。言ってるのはガタいのいいダミ声の右翼のおじさん」ぐらいの認識が一般的に浸透してしまい、地上波などでもそんな言葉は遣われない。「じゃあそんな表現遣うのやめとこ」こんな風に秩序や常識は構築される。それが「常識人」への圧力となるには十分だろう。

「大東亜戦争はよくない」というのも言論の自由だが、なんでダメなのかまともな説明ができないならその人は言論弾圧魔だと言ってもよいと考えるのが一般的な人にとってシンプルだし、これで間違っていない。何も戦前の公文書なんて読む必要はない。
「いろんな意見あるのに大東亜という単語を遣うだけでもダメなんておかしくね?」この真っ当な感覚さえあればよいのだ。
そして「太平洋を遣うのが良識だ」のようなぼんやりしたことを言ってくるのは何か邪な狙いでもあるに違いないと考えてよい。意味不明なことをゴリ押してくるわけだから表立って言えない意図があると考えるのが筋だ。

今回残念なのは結局大東亜の表現を削除してしまったことで、自衛隊は今後表立ってはこの言葉を遣いにくくなってしまったことだろう。
これが「問題化」されるわけだから、上司である防衛大臣から「めんどくさいことしないでくれん?」と言われてしまうのを予期することになるからだ。
言葉狩りの成功の実績をまたしても作られてしまったことになる。

これを防ぐには、「近現代史をきちんと勉強しろ」もいいのだが、「ガチ議論する気はないけど、大東亜の単語を口にするだけでダメって方がエキセントリックじゃね?」と多くの人が思うようになることだろう。
そもそも勉強したところで凝り固まった人間は、結論を変えなかったりもする。

10%が「これこれこういう理由で大東亜が正しい」と主張して、それ以外の90%が「大東亜とか右翼っぽくてなんか怖い」という状態だったのが、半分ぐらいの人が「いや、別にいいだろ。朝日もこの単語遣うなとかおかしいし、根拠も何言ってるかわけわからん」となれば、言葉狩りもしにくくなるはずだ。

まさに民主的統制(シビリアンコントロール)のもとにあるからこそ常識や秩序、通念は重くのしかかる。「無関心層」を手玉に取られないために難しい話よりもシンプルな判断の仕方を重視してほしいと思う。

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