Abema「若者崩壊」議論。反発とすれ違いのメカニズムを徹底解説

Abemaで「若者崩壊」というテーマで議論が交わされた。「今どきの若者は…」というよくある議論はなぜ毎度すれ違いが起こるのか、そのメカニズムを私なりに解説したい。

番組では現代文の有名講師の出口汪さんが出演し、「若い人たちは読解力が落ちてきていて、そうすると主体的にものを考える能力が落ちる。原因は難しい読み物に挑戦せず、活字ではなく動画、文学といってもライトノベルといったような思考力を要しないコンテンツばかりに浸かっているからだ」という主張をしていた。そして申し訳程度に「それは大人が土壌を作っている」とも言う。

出演者は出口さんが何を言いたいのかわからないと口を揃えるが、出口さんは主体的にものを考えるということをもって、完成した人間となると言いたいのだろう。その力は難しい本を読むことで培われるらしい。
生き生き仕事する若者と何も考えずに仕事する若者。詰め込み教育の弊害が後者を産んでいるというが、これらはいろいろと突っ込みどころ満載だ。

まず平易なコンテンツのせいで主体性が培われないというのもあるにはあるだろうが、その逆つまり主体性や高いものを目指す意欲がないからこそ難しい本を読まなくなったのかもしれない。あるいは「人生とは」「死とは」「よき社会とは」のような問いがなければ難しい本を手に取る必要はない。
詰め込み教育論に至っては同じ詰め込み教育の試験を通過した同じ大学の卒業者の中に主体的な人間とそうでない人間が大きな偏りなく混ざっていると思うがいかがだろうか。

医学部なんて出口さんの言うところの主体性のない学生もたくさんいたし、知性や教養のかけらもない空間だった。だがこれも詰め込み教育のせいというよりは、お行儀よく塾のカリキュラムをこなすことに適応的な人が受かりやすいからにすぎない。

つまり因果が逆、もしくは難しい本やら詰め込み教育と主体性の間にそもそも因果などないのだ。もし詰め込み教育を問題視するというなら「詰め込み知識ではまともに大学さえ入れないようにしろ」と試験実施主体に提案すべきだ。

ただ出口さんが「主体性のない人間に育っては当の本人が困るのではないか」という憂慮は心からのものであると信じる。人間として本質的な大きなピースが欠けていると感じているのだ。
だがそこに出口さんの個人的感情、自分が大切にしてきた人間観や価値観が顧みられなくなっているある種の疎外感、もしくは昔カリスマ講師として崇められていたプライドが見え隠れするためにこの手の議論では反発が起こりやすい。

他の出演者の方は出口さんの主張がよくわからないというのもたしかにあるだろうが、やはり過去に成功していた人から上から批判されたように感じることによる反発心もあるだろう。
例えば「エビデンスはあるんですか?」という質問だ。主張内容自体もわからないし、その根拠もあいまいなのでエビデンスを聞くのは間違ってはいない。
しかしエビデンスを問うことはこの手の議論ではあまり本質的ではないように思う。
例えば読解力が落ちているというデータがあったところでそれが学生たちの人生を不幸にするものなのかというそれ自体が時代によって変わっているのだ。読解力が人生を豊かにするというのが普遍的なのかどうかはデータ自体からは出てこない。

これは適応や防衛というところまで考えなくてはならない深い話になるだろう。現実の社会で何が求められているか、内面的豊かさと経済的豊かさのバランスはどうあるべきなのか、そして理想と現実のギャップから防衛的にならざるを得ない場面ではどのように人間は変容するのか。どれもちんけなエビデンスで結論が出る話ではなかろう。

ではどう議論したらいいのか。「出口さんの主張は端的にはなんなんですか?」という問いかけがあったが、これはエビデンスを出せというのとは違って主張を封じるベクトルではなく引き出そうとしている。
狭かろうとエビデンスがなかろうと、どんな主張かまずは聞いてみてもよいのではないか。
自分の大学の後輩が行事で積極的に動いてくれなかった、難しい本を読まない、すぐ答えを求めてくる。そういったことは実際あったのだろう。

出演者の方から「テレビが始まった時から視聴者は受動的だったのではないか」という疑問もあった。いい質問だ。今はその中身が薄っぺらいというならそれを出口さんは言えばよいのだ。
例えば宮台真司さんは、「勧善懲悪ものであっても昔は悪者側にもそうなる必然性があったということまできちんと描かれていた」と話している。
外形的なルール違反を何でもかんでも叩く昨今の風潮のブレーキになるかもしれないではないか。少なくとも考える余地は生まれる。
これなら質問を投げ掛けた人も「そういう側面もあるか」となる可能性がある。
ちなみに私の感覚を言うと、どのメディアから享受するかにも依るが、ここ数年は音楽にしてもマンガやアニメの部類にしても質は悪くないと思う。昔のいい部分はないとしても、一つ一つの言葉に繊細さがあったり、等身大の世界観が描かれていたりする。「繊細でセンスある言葉遣いするなあ」と大学生世代に感心することがある。昔とは違うが、尊重に値する中身があるコンテンツの影響をちゃんと受けているのだと思う。
逆に90年代の猿まねさえ覚束ないコンテンツだらけの時代は陰湿で自己防衛だけに汲々としている人が多かった記憶がある。

文化人類学という学問がある。「学」と名乗ってはいるが、その黎明期は単なる旅行記のようなものだった。西洋人が「未開人たち」の「非合理的な」風習を目にして、それを驚嘆とともに描いている。
しかしそれらの知見が徐々に蓄積されると、一見非合理な風習も「社会の繋がりを維持するため」「交易圏を狭めないため」「誕生から死までを意味付けるため」などこちらからは見えにくい「他者の内在論理」を炙り出すことで、彼らが彼らなりのやり方で存立していることを見いだした。
さらには西洋自身が自らの根本的な価値観を顧みる契機ともなった。
他者を知る営みとは実は自分を知る営みでもあるのだ。

年寄りの話なんて説教くさいし、こっちを見ずに自分がうまくいったときの話ばかりだし、論理や一貫性に乏しくわかりにくい。言い負かしたり封じたりするのは簡単だが、だからといって破棄するのはもったいない。
「この範囲ではたしかに妥当だ」などと整理したり、なんなら「通訳」がいるといいのだが…。
先日戸塚宏校長がAbemaに出演したときなど、私が通訳を買ってでたかったぐらいだ。一応解説記事にはしたので興味があればご覧いただきたい。先程の「因果が逆」ということについて戸塚校長の考えを紹介している。

さて適応や防衛に話を戻したい。
難しい本を読む能力がないと本当にダメなのかという話だ。AIの発達で、型にはめる系の多くの知的労働がいらなくなるとも言われる。だからそんな能力は必要ないとなるのか。電卓が出てきた後も我々は計算練習をしてきた。本当はそんなもの必要なかったのだろうか。
技術礼賛の人たちは、古い教育はやめろと言い、既存の学校教育の利益を受けてきた側は、今のをやめたらまともな人間に育たないなどと言うがお互いに根拠は乏しい。手計算を大人が仕事で使うことはないだろうが、それでも学童期に計算練習をする意味はあるのか。
これは本来は人間の成長や発達を考える分野、教育学や教育心理学などが解を出すべきだが、あまり積極的な発信を耳にしない。いづれにせよ、子供は単に大人を相似縮小した存在ではなく、発達や成長は入り組んでいて複雑だということだけ申し添えておこう。

既存の会社組織では新卒者の三年以内の離職率が3割にもなるとのことだが、それを若者の社会適応の問題と見るのか、制度疲労と見るのか、もしくは全然違う適応への足掛かりとして肯定的に見ることは可能なのか。人手不足の中で企業は若者に合わせてくるだろうし、「会社員なんてやってられないから起業します」「転職でステップアップします」という人も出てくるだろう。どちらもこれまでの悪いところを壊してくれる。
しかしそういう人たちは現状退職している3割の中の多数派ではないだろうし、企業の改善努力の成果を享受するのも先の話だ。つまりかなりしんどい思いをしているのが今の離職者の現実だろう。
ということは嫌なことをやり続ける「根性」があった方がよかったのか。
今をやり過ごすという目的ならそうだろう。しかし昭和のサラリーマンと同等のペイが将来保証されていないのに「若いうちは根性出せ」と昭和世代がいうのは不公正だ。産業構造も変化している。根性あるせいでむしろ既存の構造を温存してしまう。
「こんなことを真面目にやり続けてもワリに合わない」とうっすらと若者も感じているのかもしれない。それならばそんなとこを辞めていくことは自身を正当に防衛していることになるだろう。

結局いろんなものが壊れるのを待つしかないのか。
若者に比べて上の世代がよく口にするフレーズは「これからの日本社会は大丈夫なのか」というやつだ。社会を保守するという観点から今の若者は大丈夫なのかという懸念が出ているのだ。これは個々の若者を心配するのとはまた違うものだ。
主体性でも根性でもまたは何らかの成功体験に基づく方法論でもいいが、それによって社会を守ってきた、それでうまくいってきた、そしてこれこそが根幹なのだという強い想いが上の世代にあるからこそ「今の若者は」となってしまう。
しかしその空洞に見える部分には異なる別の何かが若者の中を満たしているのだがそれは外からは見えにくい。さっきの人類学や最近のコンテンツの話だ。他者は他者で異なるやり方で存立しているのだ。

あるいは年長世代からは違和感ある振る舞いは自己防衛反応なのかもしれないと優しく見てあげてほしい。年長のみなさんも若い頃は自信も実績もない中で自分を守るために間違った振る舞いをしたこともあったのではないだろうか。今の若者とはちょっと違った仕方で。

かなり雑だが、若者が社会という表象を仮にもたないとすると、では社会の存立はどうなるのか。
一つの答えは「最近の若者は」と紀元前から言われていたという話が教えてくれる。
年長世代の懸念に反して人類は何とかやってきたというところか。それとも紀元前のギリシャ哲学を学び直せば善き社会は再来するのか。歴史上、破壊され消滅された素晴らしい社会や素晴らしい文化はあっただろう。今の世の中がそれらを忘却したろくでもない社会と言えなくもない。
しかし復古主義を選択したところでそれはセンチメントにすぎない。なぜならどんなに素晴らしい文化や慣習も諸条件や文脈の中に生きていたのであり時代がその土壌を流し去ってしまった以上、現在有効に機能するとは思えないからだ。

結局は制度疲労と、そこへの反発、とりあえずのやりくりの末に行き詰まる。そのとき真価が問われる。
みんなが勝手気儘に仕事をやめて納税しない、安易に社会的な保護に頼る。そうなった時、その世代が解決する底力を出すのかどうか。
歴史の答えは、そこそこやってきたということなのかもしれない。だがその過程で様々な犠牲は出る。
守りたい側と壊したい側が社会に同時に共存するからだ。

よって若者は上の世代の小言も聞きつつ、自主自律を志向しつづけるしかない。誰も助けてくれない。
出口さんの言う意味と同じかどうかはわからないが、最後の最後は何らかの意味での主体性は持ち続けなければならない。もしくはそれぞれの時代に求められる主体性があるのかもしれない。身も蓋もないがこれが答えだ。









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