全世代からの反発必至。若者が政治に関心をもたない真の理由。人生というゲームは権力や金に一元化されるのか。

シルバー民主主義なる言葉が聞かれるようになって久しい。全有権者に対する高齢者の割合が増え、選挙に当選したい政治家は高齢者の側を向いた政策ばかりを主張、実行することで、若者や子育て世代への支援や国家の成長を促す政策はないがしろにされがちだというのだ。よって若者たちは政治を自分事として捉え、自分たちの利益と将来のために投票率を上げて、若者へも目を向けさせるように政治家に対してプレッシャーを与えるべきだというのだ。

これに対して経済学者の成田悠輔さんは「若者も自民党支持だから変わらない」、ゆろゆきさんは「若者が全員投票しても高齢者の票の方が多いから、高齢者の意向が通る」と言う。どちらも論理的に正しいだろう。
元大阪市長の橋下徹さんは「政治家が覚悟を決めて、若者のために高齢者のみなさんにご負担をお願いすれば理解してもらえることもある」と言う。橋下さんは公職時代に敬老パスの有料化を実施するなどの改革をしており、自身の経験や手応えからお話されていることと思う。高齢者は高齢者だけの世界を生きているわけではなく、かわいい子や孫がいたり、自身の亡き後の日本の未来の発展を祈ることもあろうから訴え方次第だとは思う。ただし、反対勢力は高齢者の負担増を声高に叫び、足を引っ張るだろうから橋下さんほどの圧倒的人気や発信力がないと並みの政治家は腰が引けてしまうだろう。
ちなみにひろゆきさんの論に補足すると、若者の利益のための政策に高齢者も賛同できるが、そのような意思も含めて高齢者の意思が通るということであろうから、やはり正しい。
このように、日本の未来のために政治家が自身の保身や損得を考えないような覚悟をする以外には道がないという悲観論が優勢だ。

ここまで日本の衰退があちこちで言われていても、若者の多くが政治に意識を強く向ける様子は見受けられないのはなぜなのか。
一つは命や生活基盤、重要な価値観を脅かされてはいないということだ。何だかんだ言っても餓死する人が周りにいるわけでもなく、金のかからない娯楽があったり、そもそもの期待水準が低いので怒りや不満が政治に向きにくいのだろう。
もう一つは「政治はよくわからない」というものだ。テレビを観ていても政治家のしょうもない不祥事やら小バカにしたような批判ばかりだし、表で言っているきれいごとはどの政党も似たり寄ったりで、裏ではどんな思惑があるのかが本物も陰謀論もごちゃまぜになって耳に入ってくる。党派性のもとで議論がなされるときはみんな何だか怖い。是々非々なんてものはほとんどなく、各党派は結論ありきの無理矢理な論を感情的に展開していたりする。細かい知識が少しでも抜けていると、反対派からバカにされ、叩きのめされるのはなんでなのか、ひろゆきさんのような素朴な思考でYES、NOが明らかなものまで政治家や運動家が妥当な方を認めようとしないのは何でなのかよくわからない。外交や防衛なんて日常生活とは程遠く感じる。
しかし、周りに餓死者がいないことや外交防衛が生活から遠いことは中高年でも同じなのではないか。

では若者との違いは何なのか。ようやく結論だ。
それは一つは社会全体、国家全体という抽象的な表象を若者がもちにくいということだ。
そしてもう一つは、あらゆる価値が権力や金に一元化され、人生とはそれらをより多く得るゲームなのだという観念を若者はやはりもちにくいということだ。
そのため、なぜ国会議員が偉そうなのかや、きれいごとやパフォーマンスの裏にはどのような利権があるのか、実力のない者や必要のない業務に沢山の金がばらまかれているのは何でなのかは理解しにくいのだ。
若者は等身大のリアルを生き、ワクワクしたり、生々しい情緒や情念をもち、躍動感ある生をそれとは意識せずに生きているのだ。それらは金や権力という数直線上の大小関係に回収されない、一元化されない多様性をもつ。
商業主義で作られた流行にのる若者は、しかしそれでもその流行そのものの内容を楽しんでいる。メイクやファッション、海外アイドルについて目を輝かせながらディテールについて語り、同じ体感覚をもつものどうしで楽しむ。「これこれこういうマーケット戦略にのってるだけだ」などと分析するのは大人かノリが異なるお利口な子たちだろうが、楽しんでいる側はそんなことに興味はないし、そんなこと言われてもシラけるだけだ。
バンド活動やら部活動に明け暮れる高校生に対して親の中には「そんなことばかりしてないで将来のために勉強しろ」などと言う。その方が人生トータルで得だし、さもないと将来後悔するらしい。本人は今それを一生懸命わくわくしながらやっているのであり、将来の損得と比較なんてできないものだ。その体感覚を親は共有してくれない。
横暴な政府の決定に憤慨してデモなどの行動を起こしているピュアな若者は、単に反対勢力の動員にのっているだけかもしれない。
毅然とした強気な発言をしたり、貧しい人や高齢者に寄り添う発言をすれば選挙で何万票増えると政治家は計算していたりする。感情をフックにしている者にこそ感情がなかったりするわけだ。
学問研究もただただ面白いからやるのではなく、公金支出されてる以上は社会の役に立つことを示せと言われる。
若者的な向こう見ずで躍動感ある生き方やその実感が弱まり、生活基盤や金が安定的に担保されることが重要であり、子供は世間知らずだという観念に切り替わっていく。もちろん、子供が好きなことに打ち込めるのは親が生活基盤を担保してくれているからだ。それは正しい。そしてそのような「現実」が優勢になっていくことで人は「政治的な」大人という存在になっていくのだろう。それは等身大のリアルならざるものに支えられている。そしてそのリアルが失われることから社会や国家の全体という抽象的な表象に切り替わっていくのではないかとも考える。
年齢を経るにしたがって、損得考えずに自身の感覚そのものを生きるのではなく、自分が何を積み上げてきたのか、人生が限りあるものであることが実感されてくることで社会や国家という、より大きなものから見て自身の存在を意味付けざるをえなくなる。そうして国家や社会について自分事化して考え始める。これはもしかしたら自身の生に対する大いなる絶望なのではないのか。キルケゴールが言うところの死に至る病というのはこのことだと思うのだが、浅いだろうか。
日本ではほんの数十年前にたくさんの若者が政治的な活動をしていたこともある。様々な社会的文脈、そして自らの生とのつながりを実感できる物語がそこにあったからこそそのような状況は成り立ち得たのだと思う。つまり当時の若者にとってそれが「イケてる」ことだったのだろう。ほとんどの参加者は活動の内容なんてわかっていなかったとも言われるが、それでもそのようなパッションを惹起する物語はこの後出てくるのか。もしくは出てこない方がいいのか。
人が政治的存在になることは生の形式の転換があるのであり、その転換の両面にそれぞれの事情があるだろう。政治的関心なるものをもつこと、それは人間の生の悲しき必然性なのかもしれない。




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