冤罪が最大の人権蹂躙である理由と、冤罪が引き起こされる背景を考察。司法の罪は確定判決だけではない。袴田巌さんの再審開始に寄せて。

先日、1966年に起きたいわゆる「袴田事件」の再審開始決定が東京高裁で出された。数日以内に再審を開始しないように求める特別抗告を検察がしなければようやく静岡地裁で再審が開始される。ちなみに当然だが再審開始は無罪判決ではない。もう一度審理し直すということにすぎない。
私は冤罪ほどの人権蹂躙はなく、どんな犯罪よりもひどいものと考えている。まずその理由を簡潔に述べたい。さらに、自白の強要や証拠捏造など冤罪が生まれる背景はたくさん考えられるが、今回は裁判所の内在論理という観点から冤罪が生まれる背景を考察してみたい。

繰り返しになるが、私は冤罪は最大の人権蹂躙と考えている。普通犯罪をするときはその加害行為を正当なこととは思っていないことが多いだろう。だが、冤罪においては正義の名のもとに、正当性をもって、犯人とされた人に生命や身体的自由、そして名誉への侵害が堂々と行われてしまったことになる。これがどれだけ屈辱的で絶望的なことか。普通の犯罪者は自らの犯罪が露見していない段階では、その露見を怖れるだろう。それは自身が「悪い」と認識しているからだ。それに対して国家による犯罪者への刑罰は正当な暴力、正義の実現という形をとる。社会も様々な形でその正当性を認めることが要請される。冤罪被害者は、強大な国家による理不尽な暴力を、「正義の実現」を叫ぶ社会からの拍手喝采とともに受けることになるのだ。
それまでの素行や類似事件への関与など、疑われる理由がある場合もある。警察も1億2000万人を対等に捜査しない以上「偏見」をもって捜査をするのは仕方がない。警察にはリアリズムで動いてもらわなくては我々が困る。
どの属性の人がどのような文脈のもとで捜査対象になりやすいのか、現場の刑事は判明している事実からどのようなストーリーを紡ぐのか、そして当該冤罪被害者はどのようにそれに当てはまってしまったのかなども検証する必要がある。
見込みでの捜査は仕方ないが、見込みが外れていそうだとわかった段階で軌道修正すればいいのであり、どんな理由があろうとやっていないことで裁かれる屈辱はあってはならない。

冤罪を引き起こす一因に裁判所特有の内在論理があるのではないか

頭の良いエリートたる裁判官が本気で純粋に理性的、合理的、論理的に考え抜いた末に間違えた結論を導いたというのならまだ仕方がない部分もある。それは弁護側の反証が完璧ではなかったことに起因するとも言えるからだ。
だが、本当にそのような事情に限定されるのか。証拠の捏造や自白の強要は論外だが、裁判所が自分たちの組織に特有の論理で、間違った判断を導き、しかもそれを上級審でも維持してしまうという構造はないのだろうか。
袴田さんは1980年に死刑が確定し、翌年には再審請求をし、その後20年以上して請求が棄却されている。私が記憶している限りでも90年代には袴田さんは冤罪だと言われていた。ズボンが小さくて袴田さんには履けないだの、一年以上して味噌ダルから見つかったズボンが鮮血色であるのは不自然だのということはその頃にはすでに言われていたと記憶している。この記憶が正しかったとすると、00年代の再審請求棄却は本当に合理的、理性的、論理的に考え抜いた上での事実認定だったと言えるのか。
たしかに三審制のもとでの確定判決は重く、安易に覆されるべきではない。しかし、今回の再審開始決定の根拠が、例えば最新の鑑定技術のおかげで過去の証拠を覆したとかならともかく、昔から言われていた事実を根拠にしたのだとすれば、この時間は一体何だったのか。間違えたことが疑われた段階でリカバリーすれば冤罪被害は少しは小さくてすんだわけで、司法の罪は最初の死刑確定判決を出した一時点だけではなく、その後もおかしいものを放置し続けるという形でその罪は継続していたと見るべきだ。
どんな組織にもその組織固有の内在論理があるものだ。これは外部から見ると合理的でないものであっても、その組織の内部では、現場を回す上で必要不可欠であったりして通用してしまう思考様式や行動様式のことだ。「~の世界では」という言葉が付けられるようなしきたりや掟のようなものをイメージするとよいかもしれない。官僚の世界では所属省庁の権益を最大化するように行動するとか、政治家がお互いに個々の意見を曲げて、政治的貸し借りをするといったことが例としてあげられる。これらは官僚や政治家が国民全体の利益を求めるべきだという理念に反する。医療現場でも理念に反することは残念ながら起きている。理念というのはユニバーサルなもの、普遍的なものだ。しかし個々の職業集団や業界はそれぞれがエゴをもった人間の集まりにすぎず、業界ごとに集まる人間の特徴だってあるだろう。他の構成員のエゴを忖度したり、組織の存続や勢力拡大のために公共的な原則を踏み外すことだってある。さらには、構成員相互がそれらを「共通認識であるということを共通認識」するのだ。そうすることで現実の仕事をやりやすくしたり、構成員がその地位に安住していられるという側面がある。これが組織固有の内在論理なのだ。外からはおかしく見えるものでも、長年その組織や業界にいればそれらが内面化され、「組織人」となるのだ。
裁判官の世界にもそういったことがあるのではないか。例えば、判決の相場は検察側の求刑の8割程度にするという不文律があるらしい。検察や弁護士双方の面子を保つためだったり、軽すぎると検察に控訴されるからだとも言われる。バカげた求刑やバカげた弁護にまで忖度する必要があるのか。正しい判決なら控訴なんて恐れる必要があるのか。上級審で判決が覆ると自分が恥をかくという話なのか。すべて内輪の論理だ。外部の目線からは是認されない。

「疑わしきは被告人の利益に」とか「自白のみでは有罪とされない」とか「裁判官は法と良心のみに従う」いった原則は貫徹されているのか。
「グレーだけど、ここまで来ちゃったし、今覆すと裁判官同士お互い気まずいよねー」なんてことで死刑判決が維持されたということはないのか。「検察が都合のいい証拠だけをチョイスして犯人に仕立てるストーリーを作ってるけど、いくつかおかしなとこは目をつぶるのが法廷の作法だよね」とか「政府の見解にたてつくと出世できないから屁理屈つけて肩透かし判決書いとこ」なんてことをしていないだろうか。
どの世界にもこういった内輪にだけ通用する論理はある。だが青臭いことを言わせてもらうと、公正な原理原則を堅持し貫徹する、これこそ法の世界のセントラルドグマではないのか。例えば政治が理念を唱いながらも国益や現実の統治の都合を考えるのとは違う。
司法の世界は閉鎖的で、その世界の現実やら内在論理を取材して暴いたところでなかなか変わりそうにもない。当事者間の平等を担保するために判例だけではなく慣例(例えば最高裁は自判せずに高裁に差し戻すことが多いとか消極司法など)にも縛られてしまうからだ。

それにしても再審開始というのは無罪を意味せず、これから審理しなおすというだけのことだ。確定判決は重い。それゆえ確定判決が覆ることが明白な新証拠があるときに再審開始は初めて認められる。であれば、地裁であっても一度でも再審開始の判断が出されたなら、再審開始自体への検察による異議申し立ては認めず、即座に審理を開始すべきではないか。再審の結果、再び死刑判決を出せるのであれば、再審するかどうかまで三審制にする必要はないと思う。さすが人権派の日弁連はこの点に関しては私と同じ見解であるようだ。
とにかく時間がかかりすぎる。早く法改正をして、審理をやり直すかどうかの審理に何年もかかるなんていう事態は改善してもらいたい。

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