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鞍馬の奇祭「火祭り」を見ているうちに、姿を鞍馬してしまった「憑き物」

先日Twitterでこんなことを書きました。

心を捕らえて離さない、日々「気になる」ヒト・モノ・コトは全て、自分を高い次元に高める「試練」として在る。
向き合おう。
立ち向かおう。
繰り返そう。

なぜか、一日中考えてしまうコト、ありますよね。
それが、不安・心配・恐れ・怒りなどのネガティヴな類の場合は、いわゆる「念をつなぐ」状態で、どんどん悪い方向に妄想が膨らんでしまう。

その対処法の1つとして、まったく関係ないことに集中する。
僕の場合は、山に登ったり、剣道をやったり、瞑想やヨガをしたり、古い映画を見たり。

気づけば「あれ、何考えてたんだっけ?」と根こそぎ心配ゴトはなくなっているものです。人間はゲンキンなものです。

それでも「念」がなくならない場合!

どうにもこうにも頭から離れない!
わかっちゃいるけど、やめられな
い!
そのうち「ま、いいか」とその妄想や妄動を許してしまう自分がいる。

そういう状態を救ってくれるのが、僕の場合はシンクロニシティ。
普段から神仏に手を当てているからでしょうか、まったく関係のない偶然の出来事が、妄想や執着を取り払ってくれるのです。

先日、こんなコトがありました。

夜に車で帰宅し、荷物をたくさん持って玄関まで行こうとしたその時、
「ガチャン!」とイヤ〜な音と共に、iPhone13が手元から地面に滑り落ちてしまったのです。
明るい場所で見ると、画面にはうっすらヒビが。
翌日にはそのヒビがますます広がり、これは5万円コースでの修理かぁとすっかり落ち込み、夜の瞑想タイムで自分の不注意やその他の行ないを省みていました……。
と、その時ふと気づいたのですが、ココ1年ぐらい頭から離れなかった、とある執着がすっかり抜け落ちていたのです。
まさに「わかっちゃいるけど、やめられない!」と、きっかけさえあれば行動(妄動)に移してしまいそうだった「とある欲望」がすっかり頭から姿をくらましていました。

驚きです。
どんなに頭の中で正論を戦わせても消えなかった「ヤツ」が姿も形もなくしていました。
それが携帯の画面が割れたごときのことで…。

よくショック療法なんてのがありますが、それに近いのでしょうか。
携帯を落としたというシンクロニシティが、大事なメッセージを抱えてショックを与えてくれた、としか思えません。

しかも、翌日にApple Storeで見てもらったら、表面のガラスフィルムが割れただけで、画面は割れてなかったという幸運もオマケについてきました(自分で気づけよ!というハナシですが)。

で、
京都・鞍馬の奇祭と呼ばれる「火祭り」でも似たような体験が。

鞍馬の火祭は、京都府京都市左京区鞍馬にある由岐神社例祭の一つ。京都三大奇祭の一つに数えられる。 集落各所に焚かれたかがり火の中を、氏子が剣鉾、神輿の綱、松明を持って練り歩いて山門前を目指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍馬の火祭

鞍馬駅から続く街並みを町中の人が総出で、たいまつなどに火をつけ、道を練り歩いている様をボンヤリと眺めていました。けっこう危ないぐらいアチコチ火だらけです。

火を眺めるという行為は、人にとってどんな意味があるのでしょうか。
焚き火には「1/fのゆらぎ」があるとも言います。

人類は火を発見したことで文化を創ってきました。
火は灯りでもあり、外敵から身を守り、調理して食べれるものを増やしてきた。
火は安心であり、希望であり、進化の象徴であった。
でも、使い方を間違えれば、自分の身を焼き尽くすことにも。

——そんなことをボンヤリと考えながら街を歩き、、、気づいたのです!
さっきのスマホ事件より、根深く、長く、堂々巡りのように頭から離れなかった「とある執着」がすっかり消えていることに、ふと気づいたのです!
頭で考えないようにした行為じゃなく、おそらく3年は続いた憑き物のような執着がすっかり姿をくらま(鞍馬)してしましました。
それはもう他人事のように思い出されるだけで、そこには何の感情も張り付いていません。記憶はあっても「人ごと」です。

「火を見るよりも明らか」
なんて言葉がありますが、僕の場合は
「火を見ることで明らか」
なのでしょうか。

見てください!
このサウナ後のデトックスしたようなさっぱり顔。

……伝わりますかね?(笑)

みなさんも悩んだ時は火を見ましょう(安全に)。
火祭りまではいかなくても、お寺の護摩焚きなんかいいと思いますよ!

石原ヒサヨシ


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