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ひとりの親族の戦争体験について

 終戦の日ということで、戦争体験についての話をよく見かける。今でこそ戦争経験者から話を聞くのは難しくなってきているが、自分が中高生の頃には割と戦争経験者は身近にいて、小学校の夏休みには「おじいさん、おばあさんから戦争の話を聞いてきましょう」なんて宿題みたいに出されていたこともあった。

 90年代末に自分が入り浸っていたチャットにいた農協職員の人は、仕事柄お年寄りと話す機会が多かったのか、「今日は戦闘機の整備やってた人の話を聞いたが、三式戦飛燕は液冷だったので整備が難しいと言っていた」、「青酸ガスが入ったガラス製手榴弾を抱えて恐る恐る渡河した話を聞いた」などの話をしてくれたのが記憶に残っている。2000年あたりまでは、まだまだ戦争経験者が大勢いたんですね。

 自分の祖父母の戦争経験は従軍経験に限っていえば、父方の祖父が「高知で当たらない高射砲撃ってた」と父経由で聞いただけだったが、父の母方の大伯父には詳細な話を聞いたことがある。もう20年以上前のことでこれから記憶も変化してくことだろうから、この機会に大伯父から聞いたことを記録しておきたいと思う。大伯父、あるいは自分の記憶違いも多々あるだろうから、そこはあらかじめご了承ください。有料と表示されていますけど、いつもの通り投げ銭設定ですので、別に支払わなくても最後まで読めます。

 自分が高校生の頃だったと思うが、墓参りの後に大伯父と近くのそば屋に寄った際に聞いた話だ。なお、その墓参りにあった墓石の一つは大伯父の兄のもので、1945年に南九州海上で戦死していることをその後になって知った。父は大伯父から「兄は巡洋艦に乗って死んだ」と聞かされていたので、戦艦大和の海上特攻で沈んだ軽巡洋艦矢矧の乗員と思っていたようだが、墓石に刻まれた亡くなった日は矢矧のそれとやや異なっていた。兵籍簿を取り寄せて確認したいが、未だにできていない。

 話を戻そう。夏のことだったと思うが、墓参り後に寄ったそば屋での昼食後、大伯父が突然戦争の話を始めた。きっかけが何だったかは分からないが、父曰くほとんど戦争の話をしなかったこの時に大伯父が話し始めて少々驚いたそうだ。

第六号掃海艇

 海軍に召集されていた大伯父は、太平洋戦争開戦時には掃海艇で通信兵をやっていたという。大伯父の乗った掃海艇は南方作戦でボルネオ島に向かったが、開戦劈頭の日本海軍イケイケドンドンの頃でも掃海艇は結構被害を出しており、次は自分かと戦々恐々していたという。

 1941年12月25日のクリスマス。停泊中の掃海艇が潜水艦の魚雷攻撃を受ける。潜水艦を発見したのが誰だったかは覚えていないが、大伯父は水中の潜水艦の影をはっきり目視できたという。急いで潜水艦発見を打電したが、既に魚雷は発射されている。すわ命中と思いきや、魚雷は音もなく掃海艇の下をすり抜けていく。大伯父の見立てではこの時、燃料の石炭がほぼない状態だったので、船体がたいして沈んでいなかったからだろうとのことだった。

 翌26日には、今度はイギリスの飛行艇が飛んできた。大伯父は自分の乗艦を「掃海艇」としか言っていなかったが、おそらく大伯父が乗っていたのは第六号掃海艇だろう。戦史叢書では第六号掃海艇を攻撃したのはオランダ軍の爆撃機(機種は書いてないが多分B-10)とされており、大伯父の認識と異なっている。

 船に横付けて石炭補給中だった掃海艇が狙われ、乗員は甲板で機関銃や小銃で対空射撃を行っていたそうだが、投下された爆弾が煙突内で炸裂するなど深刻な損害を受ける。この時、大伯父は自分の隣にいた自分より若い通信兵に爆弾の破片が直撃し、「天皇陛下万歳」と叫んで絶命するのを見て衝撃を受けたという。日本軍兵士が死に際に「天皇陛下万歳」と叫ぶか? という言説が今でもよくあるが、当時でもそう言われていて、大伯父自身もそう思っていただけに、このことはショックだったようだ。

 後から気づいたそうだが、この時大伯父自身も負傷していて、破片の一部は戦後50年以上経ったその時でもまだ体内にあると言っていた。掃海艇は傾斜を始めていて、甲板に出ると乗員の血が傾斜した甲板を洗い流すように流れていた。大伯父は海に飛び込み脱出したが、艇長は脱出せずに艇と運命を共にしたという。

 海上を漂っていると、沈んだ掃海艇の救命胴衣が流れてきた。一人分しかなかったが、大人数名が掴まっても浮いていられたので、それで救助を待っていたという。この経験から、今でもクリスマスになると、特別な感情が沸いてくる言っていたが、これは潜水艦の攻撃のことを指すのか、大伯父が26日の撃沈のことと混同してしまっているのかは定かではない。

駆逐艦風雲

 この後、大伯父は駆逐艦風雲の艤装員になり、竣工と共にその乗員となる。風雲は夕雲型駆逐艦の3番艦だが、「世界一の駆逐艦」と言っていたのを覚えており、結構誇りに思っていたようだ。

 風雲も参加したミッドウェー海戦で、日本海軍は空母4隻を失う大損害を受けるが、大伯父によれば「空母蒼龍を魚雷処分するとき、皆泣いていた」と語っていた。風雲のいた第10駆逐隊は蒼龍でなく、飛龍の処分を担当していたはずだが、ここは大伯父の記憶違いだろうか。ただ、空母蒼龍の最期については、戦史叢書では戦藻録の記述から沈没説をとっているが、これに対して魚雷処分説も存在する。

 その後、風雲はガダルカナル島への鼠輸送や、ニューギニアの戦いにも参加しているはずだが、大伯父からこれらについて聞いた記憶がない。ミッドウェー海戦からいきなりキスカ島撤退作戦に話が飛び、運良く濃霧が出ていたので成功裏にキスカ島から脱出させることができたと語っていた。

 その後は大発(大発動艇)で信号員(手旗?)をやって終戦を迎えたそうだが、それが風雲の撃沈以降の事なのか、風雲が沈む前に異動したのかは聞いていない。掃海艇の話が長かったので疲れたのか、ミッドウェー海戦以降はだいぶ端折って話した感がある。その後で、最近になってハンバーガーを美味しいと思うようになったみたいな話になったと思う。

 その後、8年くらいで大伯父が亡くなったのを大伯母から電話で知らされた。その大伯母も亡くなり、大伯父の家は取り壊され今はマンションが建っている。資料も残されていないだろう。風雲は多くの作戦に参加した艦だったし、大発乗員の話もほとんど聞かないので、もう少しちゃんと聞いていればと後悔している。

 戦争経験者でなくても、戦後の様々な証言者でも既に鬼籍に入った人は多い。話を聞きたいと思っている方は大勢いるが、このコロナ禍でそれが果たせられないのはなんとももどかしい。早く元通りになればいいのだが……。


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