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渋谷から横浜まで歩いた話

今から17年前、大学3年生の冬。その日の私はエネルギーに満ちあふれていた。

大学ではアメフト部に所属していた。
2004年の年明け、2月のトレーニング期間が始まるまでのこの時期、部活はつかの間のオフに入る。渋谷で友人たちと飲んでいたら、とっくに私の終電の時間は過ぎていた。まだ電車があると言って帰るもの、朝まで飲み続けるもの、酔いつぶれてどこかに消えるもの。終電をめぐる攻防において、選択は人それぞれだったが、ここで私が取った行動は、

渋谷から横浜の家まで歩いて帰る

だった。

なぜこの選択肢を選んだのか。いや、そもそも”常識”というものを備えた人なら、この選択肢は思い浮かぶまい。この決断に至るまでの私の思考を紐解くのは、我ながら難解すぎる。ただ、おぼろげな当時の記憶を呼び覚ますと、

ほろ酔い
今日はなんか元気だぞ
東横線で渋谷から横浜まで30分くらい
電車は時速80kmとして、徒歩(早歩きをイメージ)は時速5km
だとしたら、電車は自分の16倍の速度
30分×16=480分=8時間
なんだ、8時間歩けば家に着くじゃないか!
今のオレならいける!
横浜まで歩ききったら、明日から景色が違って見えるかもしれない!

ぐらいのノリで恵比寿方面に向かって歩き始めたような気がする。

いろいろつっこみどころがあるのは百も承知だ。一つだけ強調しておきたいのは、私はちょっと酔っていただけ。決して"ハイ"になっていたわけではない。それだけはっきりさせた上で、話を前に進めさせてほしい。
なぜなら、このストーリーにおいて、渋谷から横浜まで歩いた動機はそれほど重要ではない(というか理由がない)。この行動によって得た様々な気づきや、道中で感じたことを共有したいから、このnoteを書いているのだ。

自由が丘までは順調

時刻は1時。
祐天寺、中目黒、都立大学と東横線沿いをひたすら歩き続ける。まだまだ元気だ。駅と駅の間を、25分くらいのペースで歩いていたと思う。順調だ。このペースなら朝には横浜に着くんじゃないだろうか。気力、体力ともに充実しており、ボジティブな気分に包まれた私の足取りは軽かった。

しかし、自由が丘付近にたどり着いたところで、線路の側にまったく道がなくなった。当たり前の話だが、当時はスマホもなければ地図アプリもない。線路や幹線道路から離れてしまうと、自分がどこにいるか知るすべは、電柱に書いてある住所くらいのものだ。線路から離れるのはリスクが高い。思いつきで始めた冒険もここまでか。

幸い、近くにはカラオケなど朝まで時間をつぶせそうなお店もある。チャレンジを継続するか、終了するか、決断を迫られた。

少しだけ考えて出した結論は「GO」。

すでに酔いは冷めていたし、2時間ほど歩いてそれなりに疲れていた。では、なぜここでも冷静な判断ができなかったのか。

この理由ははっきり覚えている。

アントニオ猪木のせいだ。

「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 
踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」

猪木がよく言っていたこの一節が、私に前進を決断させたのだ。

ちなみに、当時は空前の格闘技ブーム。
K-1やPRIDEが地上波でガンガン放送されていたし、格闘技ファンの私は実際に会場まで足を運んで、試合を観戦していた。K-1グランプリのチケットは7000円もしたのに、東京ドームの3階席からでは”南海の黒豹”が豆粒のようにしか見えなかったこと。横浜・赤レンガ倉庫のリングサイドで観戦した試合では、宇野薫が驚くほどかっこよかったこと。すべて鮮明に覚えている。

だから、この場面で猪木の言葉が頭をよぎってしまったことは、避けられないアクシデントだったのかもしれない。

川とコンビニと私

時刻は3時30分を過ぎていた。
再び歩き始めた私は、道なき道を切り拓く。

この時点では猪木の言葉の余韻もあり、まだまだファイティングスピリットが残っていた。だが、30分ほど歩いたところで、完全に方向感覚を失った。どっちに進めばいいのか、検討すらつかない。周囲は完全に住宅地だった。

ここで初めて、自分が無謀なチャレンジをしているのではないか、という不安を覚えた。恐怖、疲労、焦燥、苛立ち、葛藤。意気揚々と歩いていた時にはまったく感じることのなかった、あらゆる負の感情が突如として襲いかかる。

しかも、この時の季節は真冬。
心身ともに疲れ果てて、道端に座り込んだ。眠気に襲われたが、
「眠ったら死ぬぞ!」
何かのドラマか映画で聞いたセリフが脳内でこだまする。

仕方なく再び立ち上がり、歩き始める。
絶望しかけ、廃人のように歩いていると、ここで希望の光が差し込んだ。


川だ!!!!


昔、テレビ番組(確か世界仰天ニュース)でこんな話を見た。
それは、アマゾンの奥地に墜落した飛行機の生存者が、川を見つけて川下へと歩き続け、集落にたどり着いて生還した、というエピソードだった。

「この小川をたどっていけば、きっと多摩川に行きつくはずだ。そして、多摩川を下流に向かって歩き続ければ、新丸子、武蔵小杉のあたりにぶつかるはず」

しかし、その希望はすぐに消え去った。小川の水面をいくら見ても水の流れがわからず、どちらが川下か判別できなかったのだ。

また振り出しに戻った。

力なくとぼとぼと歩いていた私の前に、再び光明が差した。


コンビニだ!!!!


私は水と食料を買いこんだ後、店員さんに道を尋ねた。
すると、店員さんはカウンターから大きな地図を取り出して、丁寧に道を教えてくれた。
「え!?多摩川ですか?とても歩ける距離じゃないですよ。このあたりまで行ったら、またコンビニで道を確認するといいですよ。どこのコンビニでも、地図は置いてあるはずですから。頑張ってくださいね」

人ってこんなに温かかったっけ。

バイトのお兄さんからしたら、ほとんど客が来ない深夜のシフトで、多摩川まで(横浜までというと話がややこしくなるから、言わなかった)歩こうとしている珍客現る、というちょっとしたイベントが発生。それをおもしろがっていただけかもしれない。

だが、それでもかまわない。とにかく、お兄さんのやさしさに触れ、再び力がみなぎってきた。まだオレは死んでない。

丸子橋で見た朝日

時刻は5時30分。
真冬なので、あたりはまだ真っ暗だ。
コンビニを見つけるたびに道を尋ねては、多摩川を目指してひたすら歩き続けた。
そして、ようやく多摩川の土手にたどり着き、そこから東横線の沿線に向かって川を下った。

丸子橋にたどり着いた時、ちょうど朝日が昇ってくるタイミングだった。あの時のなんとも言えない感情は、言葉を扱う仕事をしている現在でも、うまく言い表すことができない。

ようやくここまで来たという達成感
オレ、なんでこんなことしてるんだろうという、自虐と皮肉
人類の可能性

「渋谷から横浜まで歩ききったら違う景色が見えるかもしれない」

ぼんやりそう思って6時間ほど歩いてきた。まだ道は半ばだったが、確かにいつもと違った景色が見えた。そのくらい、この日に丸子橋で見た朝日はきれいだった。

すでに東横線の始発は動いていた。
しかし、私はこのチャレンジを続行して、横浜の自宅まで歩き続けた。ここまで来たら、最後まで行くしかないっしょ。この時の決断には、1ミリの迷いもなかった。

多摩川以降の道のりについては、説明を省略しようと思う。実はこの後の旅路でもいろいろあった。

元住吉の近くで「バンガローハウス」というマンガ喫茶の大きな看板を目にして、ちょっとだけ心が揺れたこと
日吉を通過した後に、再び線路から離れて道を探すのに苦労したこと
横浜駅が見えた時、興奮のあまり小走りになったこと

でも、これらのエピソードを語ることにあまり意味はない。なぜなら、渋谷から横浜まで歩くという私の体験で得た気づきや学びの9割は、

「多摩川越え」

にすべて凝縮されているのだから。

横浜の自宅に到着した時、時刻は昼の12時を回っていた。机上の計算では8時間で着くと思われた道のりは、道に迷い途中で大きく迂回したため、終わってみれば約11時間かかった。

まとめに入る。
渋谷から横浜まで11時間かけて歩き、学んだこと。それは、

希望さえあれば、人はがんばれる。体力は重要ではない
→実際、歩いていてもっともきつかったのは自由が丘。10時間以上歩いた横浜では疲れを感じなかった。

・弱っている時にやさしくされると、キュンとする
→失恋して傷心の時がチャンスというあれか

・コンビニには地図が置いてある
→15年以上前の話なので、今もあるのかは知らない。

これらが11時間歩き続けてまで、学ぶ価値のあるものだったのか、それは分からない。それだけの労力をかけるなら、もっと生産的な活動が他にいくらでもあるかもしれない。

でも一つだけ言えること。

それはたまに東横線に乗った時。
車窓から見える景色を眺めていると、明日からまたがんばろうという、なんとも言えない幸せな気持ちになれるのだ。

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