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「亜欧堂田善」の作り方ー没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡

唯一無二の経歴

47歳での大抜擢

亜欧堂田善の絵はヘンテコだが(もちろん誉めている)、その「ヘンテコさ」は彼の経歴を知ると納得ができる。田善の絵描きとしての経歴は彼の描く絵以上に唯一無二のヘンテコで他にはあり得ないものなのだ。

寛延元年(1748年)陸奥国岩瀬部須賀川町(現在の福島県須賀川市)の商家に生まれた田善、本名永田善吉は絵を描くことを好み師について学んだこともあったようだがそれで身を立てることはなく、50歳を目前にするまでは家業の染物屋を手伝っていた。それが47歳のとき、突然転機が訪れる。領内を巡遊中だった白河藩主・松平定信が須賀川で昼食を取った折に田善の描いた屏風絵を偶然見かけ、気に入って召し上げることにしたのだ。そして当時日本ではまだ成功した者がほぼ皆無だった腐食銅版画の技術習得を命じ、無名の染物屋を日本の銅版画史上のパイオニアにしてしまう。そんな小説や映画にするにしても強引すぎて駄目出しされそうなストーリー展開があるのかと思うが、とにかく定信という人がスコブル慧眼で固定観念に縛られない考え方の持ち主だったということなのだろう。そのおかげで我々は江戸時代にこんなにも異色で面白い絵描きを持つことができたのである。

エンジニア兼アーティスト

田善の抜擢は絵描きとしてというよりも技術者としての素質を見込まれてのものだったようだ。銅版画技法の習得も地図製作など実用的な側面を見込んでのものだったらしい。その期待に田善は見事に応えることになるのだが、“それだけ”ではなかったところが面白いのである。もともと絵を描くことを好んだ田善は手本となる西洋の版画を正確に復元するのではなく、自分なりのアレンジをそこに付け加える「創作」をした。そして支援者である定信もそれを良しとしたのである。原図とは異なる表現をした理由を質した定信に対して田善は「原図をそのまま写すのは凡庸なものがすることです」と答えて定信をますます感心させたのだという。寛政の改革の出版統制ではずいぶんと恨みも買った定信だが、基本的には芸術に理解が深い人物だったのだろう。

田善は定信の配下にあった谷文晁に師事することになるのだが、定信の下には他にも鍬形蕙斎や白雲といった奇才・俊才の絵描きが揃っていた。田舎の染物屋だった田善はイキナリ当時最先鋭の豊かな芸術環境に接することになったのである。否が応でもその創造的感性を刺激されたに違いない。

しかしそれと同時に、あくまで技術者としての活躍を期待されての抜擢だったことも重要である。田善にとって技術と芸術表現は同一の地平上にある不可分のものだったのだ。言ってみれば田善はエンジニアであるのと同時にアーティストでもあり、その両者の見分けが付かなくなってしまったときに始めて彼の芸術は生まれたのである。

二次元も、三次元も、目にするもの全てが珍しい

定信の命を受けて田善は江戸に上ることになる。これは田善にとっても、後世に彼の作品を見る我々にとっても幸運なことだった。田善に先駆けて本邦初の銅版画制作に成功していた司馬江漢をはじめ江戸に集う芸術家たちにまみえることができるというメリットに加えて、地方育ちの田善の目に都会である江戸の街並みが渡来の文物に見る異国の風景と同じように珍しく新鮮なモチーフとして映ったであろうことは想像に難くない。そのことは江戸の風景を題材とした彼の絵を見ればすぐにも確認できる。

田善にとっては目の前に広がる三次元の光景も、異国の絵に見る見知らぬ風物も、同時代の俊英画家たちが手掛ける新しい絵画の視覚も、みな同じ次元で等しく目新しいものだったのだろう。描いてみたいものが山ほどあり、試してみたい技法も尽きることなくある。絵描きとしてこれほどの幸福があるだろうか。50歳を目前にしてようやく画工としての本格的なスタートを切った田善にとって、全ては新しく、新鮮で、とらわれるべきものも少なかった。そのため彼の絵には江戸時代の他の絵師たちとは違う、まっさらな視点で同時代の光景を見る視線がある。この「眼」を通して当時の江戸の街を見られる我々にとっても、それは本当に幸運で、幸福なことなのである。

田善の絵の面白さ

AIのような手法

田善の銅版画技術の習得は渡来した書籍から得た知識に拠るものだった。先に銅版画制作に成功していた江漢に師事したという説もあるが、江漢の銅版画と田善の銅版画では技術的な洗練度がまるで違う。師事したことがあったとしても、ほとんどは田善が独自に会得したものだろう。

技術を習得するために原本の版画を模して彫る「摸刻」をするのだが、田善が原図をそのまま再現していたわけではないことは先に述べた通りである。複数の原図の部分部分をコラージュしながら新しい絵を作っていくのだ。このコラージュの仕方が普通のコラージュとはちょっと違っていて面白い。描かれている絵柄の形だけ借りて、それを表現している線の描写はまた別のものから借りてくるなど、いったん絵の構成要素をバラバラにしてからまた組み直すような、そんなやり方なのである。全体を再現しながらエッセンスを取得していく通常の絵の学び方とはまるで違っていて、ちょっと「人間離れ」している感じがする。

これはどこかAIが深層学習して画像を作り出す方法に似てないだろうか。特徴となる部分部分をカテゴライズしながらピックアップし、それを合成することで新しい絵を作り上げてしまうのである。実際、田善の刻線はコンピュータが描き出す無機的な線によく似ているのだ。原図の銅版画の線とは全然違っていて、ジェネラティブアートだと言っても通ってしまいそうなくらい揺るぎなく均一で感情を感じさせない線なのである。

しかし田善の銅版画が面白いのは、コンピュータが引いたような無機的な線にも関わらず、絵自体は血の通った人肌の温かみを感じさせるものであるということなのだ。これも原図となる版画とは違うところで、田善が参考としたような西洋の職人による精緻な銅版画は、感触としては写真のように無個性で人の手の痕跡を感じさせない冷たいものなのである。それに対して田善の銅版画の場合はむしろ肉筆のペン画に近い温かみがある。これは本当に不思議なのだが、田善の銅版画の個性であり、最大の魅力であることは確かだろう。

「変換」のズレに注目!

田善の絵の面白さは「変換」の面白さである。AというメディアをBというメディアに変換する。またはAを別の人が模倣してA´を作る。そのとき新たに出来上がったものにはオリジナルとは異なったズレが発生する。そのズレが面白いのだ! そのズレにこそ「オリジナリティ」は存在するのである。

先入観にとらわれない技術者であり進取の気性に富む芸術家でもある田善は、東西各種の絵から学びつつ、各メディア間の変換にも積極的に取り組む。水墨画のにじみを銅版画で再現し、メゾチントの濃淡表現を墨彩画で試み、中国風の山水を油彩で描く。洋風画の代表作である《浅間山図屏風》は伝統的な装飾屏風絵の油絵版だと言えるし、そもそも日本の風景や風俗を西洋の技法である油彩で描くこと自体がメディア変換的な実験なのだ。とにかく技法に関して実験精神が旺盛なのは、田善にとって芸術表現と技術開発が同一のものだからだろう。

それらの異メディア変換の実験的作品も面白いのだが、しかし田善芸術の真骨頂はやはり銅版画にあるのだと思う。それも技術の極まった後期の作品ほど傑作が多いのだが、興味深いのは技法の習得過程だった初期の作品よりも、技術力の上がった後期の作品のほうが独自の「取り換え」のアレンジが少なく、原図を忠実に摸刻したものが多いということなのである。そして田善の場合、地図や解剖図といった恣意的なアレンジが許されず忠実な再現が求められる仕事も、彼の他の作品と同じように「絵」として楽しめるのだ。むしろそれら純職人的な仕事にこそ、田善の特異な画家としての真の個性が表れていると言ってもいいかもしれない。そこに我々が感じる「個性」や「絵としての面白さ」こそが、まさに原図からの変換の際に生じたズレに他ならないのである。

田善の絵の魅力としてもう一点挙げるとすれば、それはディティールの面白さである。田善は画面の隅から隅まで均一にどの部分も同じ集中力で描いてしまう。だから風景の奥にいる極小のモブ人物までも細々と丁寧に描写されている。これは手慣れた画工の描き方ではなく、むしろアウトサイダー・アートやナイーフ・アートに特徴的な素人の描法である。故にこの描写の均一性によって田善の絵はプリミティブにも見えるのだが、同時にそれが魅力であることも確かなのだ。拡大鏡で田善の絵の細部を見ていく楽しさったらないのである。

そしてこれは地図や解剖図といった仕事にこそ田善の個性が色濃く反映されることの説明になるかもしれない。画面に均等に行き渡るこの視線は地図を見る視線と同じだからである。田善の絵が人間的な温かみを感じさせるのと同時に、どこかコンピュータが描いたような無機的な感覚を同時に持ち合わせるのも、この画面に対する地図的な視線が関係しているのかもしれない。

江戸のエドワード・ゴ-リー? 謎のテンセン

田善の銅版画の中には、作者が疑わしい一連の作品が存在する。それらの版画には「田善」ではなく「テンセン」とカタカナで署名されているのが特徴である。絵のタイトルも同じくカタカナで記される。このテンセン作は田全作に比べて総じて製版技術が劣っていて、解説によると描かれている風景の地理的正確さにも欠けるのだという。展示で実物をじっくり観察してみたが、確かに他の田善の作品に比べて人物のプロポーションが重心の高いグラグラしたもので、なによりも刻線が田善のものとは全然違う。田善ならではの均一で揺るぎのない線ではなく、不均一であまり強さを感じさせない線なのである。田善を模した別人の作であったとしてもおかしくない。

しかし面白いのは、これまで作品集などで田善の銅版画を見たときにどこかエドワード・ゴーリーのペン画に似た魅力があるなーと思っていたのだが、田善の銅版画のなかでも特にこのテンセン作がゴーリーっぽさを感じさせるのである。味のあるカタカナの書き文字の効果に加わえて、人物プロポーションの不安定さと、線自体の魅力としては田善作に比べて圧倒的に劣るものの微妙に不均一な線の醸し出す怪しげな雰囲気などが、どこかゴーリーの絵が持つ奇妙さや不安さと重なるのだ。本来の田善の絵の魅力とは少しズレるのだが、しかしこのテンセン作が加わることによって、田善の作品の魅力の幅が増していることは確かだろう。


以上見てきた通り、田善の絵はその生成のプロセスにこそ面白さの秘密がある。生成のプロセスは細部の線に、そして原図や影響元となる作品との比較によって確認できる。今回の展覧会はその絶好の機会だろう。関心を持った人は、ぜひ絵のディティールを観察する用の拡大鏡的なものを持参して出かけてみてほしい。

*展示情報
「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」
会期:2023年1月13日–2月26日
会場:千葉市美術館
料金:一般1,200円(960円)、大学生700円(560円)、 小・中学生、高校生無料 ※( )内は前売券、および市内在住65歳以上の料金 ※障害者手帳をお持ちの方とその介護者1名は無料
URL:https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/23-1-13-2-26 

参考文献:本展カタログ
金子信久著『もっと知りたい司馬江漢と亜欧堂田善』(東京美術)



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