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0029_常識外れはどうでも良い『可能世界の空理空論』

ゲーム本編は以下。無料でプレイできるフリーノベルゲームです。

■シン
型から外れるとか、型に嵌まらないって言葉を時折耳にするんですけど、
型から外れるのって、凄い事なんですか?
哲学も、結構型破りな事を云っていたりするみたいですけど。

■アマネ
む?
んー……。

■アマネ
飽く迄哲学の観点で述べるなら、型破りと云うのは……どうでも良いかな。

■シン
どうでも良い、ですか?

■アマネ
型と云うのは要するに正則系だという事だよ。
とすれば、型から外れると云うのは素朴に考えれば正則性を棄却すると云う事で、それはただの無秩序なのだから意義も価値もありはしない。

■シン
は、はあ。

■アマネ
一方、既存の型に嵌まるだけでは視野が狭いとか解決できないと云う事もある。
例えば、小さい数から大きい数を減ずるとどうなるかは、自然数の範疇では説明できないが、負の数まで拡張すれば説明が付く。

■シン
そうですね。

■アマネ
つまりだ、型に嵌まらないとか型からの脱却と云う事態が、それでも無秩序でなく有意義に成立するとしたら、それは既存の型と異なる新たな型、新たな正則系を構築する、と云う事なのだよ。
そして哲学的に価値があるとすれば、その新たな正則系構築の方なのだよ。

■シン
ああ……負の数も扱えるようにすれば色んな計算ができるようになって有意義と。

■アマネ
うむ。
そしてその場合、既存の型からの脱却が目的なのではなく、解決できなかった事態を解決できるようになったと云うところが価値なのだ。
それに、そうして得られた新たな型には嵌まる訳で、型に嵌まらないと云う事態は本質的にはただ無秩序なだけなのだよ。

■アマネ
型から外れると云う事自体は、別に立派でも優等でもない。
何故なら、ちょっとでも間違った事をすれば、それだけでもう型から外れられるからだ。
型から外れるのは誰にでもできる容易な態度なのだよ。
だから、ちょっとした事で簡単に無秩序に陥ってしまうのだ。

■シン
バッサリですね。

■アマネ
事実なのでな。
そして、有意義だが困難なのは、既存の型から脱却し、新たな型を構築する事。
人間の話で云うなら、ああそう云う世界ってありなんだ、そんな事できるんだ、と云うように新たな世界を示せる時、それは優秀であるように見えるであろう。
つまりは、新たな正則系・秩序系の構築が価値なのであり、それを為すのは難しく、それができるなら成程優秀なのだ。

■シン
型に嵌まらないのが立派なのではなく、新たな型を構築できるのが立派……。

■アマネ
そうだ。
例えば古典力学の範疇で大体の現象は説明できるのに、宇宙レベルまで考えるとどうも訝しいと云う時に、古典から脱却して相対性理論を構築するようなものだ。
ただ単に古典力学は間違っていると云うだけなら誰にでもできる。
そうでなく、ではどうなのかを示せるから凄いのだよ。

■シン
ふうむ……。

■アマネ
アーティストだって同じであろう。
ただ型から外れているだけでなく、ああそう云うのもありなんだって示しているから評価される訳だ。
もし私が型から外れた落描きを描いたところで、誰も相手しないであろう。

■シン
成程……。

■アマネ
勿論、主観を追求する芸術などであれば、他者からの評価はどうでも良いのだが、その場合でも主観がそもそも正則系で、常識や既存の型とは最初から異なるものだから、やはり型外れな訳ではない訳だ。
他の正則系と異なる正則系があると云うだけで、相対的に他と異なるのは当然なだけなのでな。

■アマネ
そして、型に嵌まらないのは簡単だし自由だ。
だがそれが有意義である為には、新たな秩序系の構築である等の価値が必要な訳だな。
そしてそもそも人間に優劣はありはしないのだから、どんな主義思想を持っていようが立派も優等もありはしない。
つまり、優劣基準が付く客観範疇の話としてはそのような有意義さが必要なのであって、ただ型から外れるだけでは無秩序になるだけで寧ろ拙い事態なのだよ。

■シン
成程なあ……。
あと、常識外れな事をしたければ常識をまず知らねばならないのだから、常識を知ろうともしないのは拙い、というような話をよく聞くんですが、哲学的にはこれはどうですか?

■アマネ
そうだなあ。
常識から外れる事自体が目的なのであれば、常識を事前に知っておかないと、どうやったら外れられるか、どうなったら外れたと云えるのかの判断もできないのだから、常識は知っている必要があるだろう。

■シン
でも、アマネさんは結構常識を知らないですけど、それでも結構常識外れな事を教えてくれたりやってたりするみたいですが……それは?

■アマネ
何か云ったかね?
だがまあ、私が常識知らずで訝しな行動を取る、というのは確かにそうだろう。

■アマネ
ところで、私の常識外れな態度を、君は素晴らしいと思うかね?

■シン
ええ、素晴らしく面倒くさいと思っていますよ。

■アマネ
君、最近皮肉が利いてきたな。
まあ要するに、否定的な評価なのであろう。
つまり、私は常識外れかもしれないが、少くとも人付き合いに於いて有意義に働いている訳ではないのだから……例えば君、私のように非常識な人間になりたいかね?

■シン
なりたくないです、日常生活に関しては。

■アマネ
だからまあ、常識外れと云うのは別に直ちに良いものではないと云うのは、まあ解っている通りであろう、と。

■シン
ええ……でも、哲学的にはどうなんですか?
アマネさんは日常だけじゃなく、結構常識外れな事実を教えてくれますよね。
それにリメイさんとかも、例えば罪刑法定主義はナンセンスだってのは、常識外れな感じがしますけど。

■アマネ
ふむ、では訊くが、君はそうした我我の常識外れな云い分を聞いて、どう思ったかね?

■シン
え? えーと……まあそうなのかなあと思いました。

■アマネ
一理ある、と思ったかね?

■シン
そうですね。

■アマネ
つまり、納得した、理解した、と云うところが価値なのだよ。
別に常識外れが価値なのではなく、正しいのだと云う事が価値なのだ。

■シン
あ、ああー……。

■アマネ
哲学者は別に、常識外れな事を目指している訳ではない。
常識だろうが常識外れだろうが、正しいものだけが正しく、そうでないものは間違いだというだけ、それを見抜こうというのが哲学なのだよ。
常識的かどうかは、どうだって良いのだ。

■シン
成程、正しさですか……。

■アマネ
例えば相対性理論の価値は、古典力学を否定するものだから優れているのではなく、より多くの事態を説明できるから、より正しい理論だから、優れているのだよ。

■シン
じゃあもし、相対性理論の後で古典力学を持ち出したなら、それは常識外れであっても価値はなかった訳ですか。

■アマネ
まあ例えとしてはそんな事だな。
より優れているものの後により劣っているものを持ち出しても、意味も価値もありはしない。
だから、常識や型や既存に対する相対性に価値がある訳ではなくて、より正しいと云う絶対性に価値があるのだ。

■アマネ
人間の世界には主観の多様性があるから、たとえ客観的に有意義と云えずとも未知の価値観や主義思想を持つ他者に触れた時、影響を受けたりそれが素敵に視えたりする事もあろう。
それは優劣のない多様系だからな訳だが、要するに優劣はないのだから、常識外れが立派だとか劣等だとかそんな評価自体がナンセンスだ。
常識的な人も、常識外れな人も、同様に正当であり、優劣はない。
過ごし易いかどうかなどの都合の差はあれ、自由で多様であるには違いない。

■シン
ふむふむ。

■アマネ
だから……何と云うのかな。
型に嵌らないとか型から外れるとか常識外れと云うのは……人間がそれらを見て面白いと思うかどうかと云う主観的な価値があり得る、と云う事であって、
客観的にとか哲学的には、価値はない。
客観範疇での価値は、より正しいかどうかだけなのでな。

■アマネ
だから、客観的正しさを追求する哲学者は、絶対的な正当性を求める訳だから、相対的な斬新さには用が無いのだよ。
立場それぞれで目指すものが違う、事態は秩序系に相対化される訳だな。

■シン
哲学って、何と云うか……本当にドライですね。

■アマネ
だって、正しさにしか用が無いのでな。
面白さなどどうでも良いのだよ。
もっと云えば、正しさこそが面白く、正しさが正しいとして判断できるのが面白いのであって、意外性だとか斬新さだとかは、別に面白くないし、正直なところどうでも良い。

■シン
ドライだなあ……。

■シン
哲学的には、常識や常識外れがどうでも良いのは解りました。
ところで、日常生活では常識を身に着けて下さいね、迷惑なんで。

■アマネ
……私、今叱られてる?

■シン
粗茶を淹れようとしてカップを割らないで下さい。
自分で後片付けして下さい。
給湯室が大変な事になってるのはどうしてなんですか。

■アマネ
だって、物が落下するのは重力があるからで、エントロピーだって増大するくらいなんだから部屋だって気が向きゃ散らかっても不思議はない訳で……。

■シン
ちょっと、こっちに来なさい。

■アマネ
質問に答えていたと思ったらお説教になっていた件について。

■シン
こら、待ちなさい! 逃げるな!

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