通りすがりの男

ただでさえ闇で暗い街角
降りしきる雨がなお一層、私の視力を奪い
見えにくいものとしている

そいつは突然現れた
雨で足音もかき消され
闇に紛れる黒いレインコート
フードを深々と被り顔も闇に紛れて見えない
そいつは店先に来て
「新聞を」
と低い声で一言いった
男だ
この界隈に住むか勤めている人物と
照らし合わせるまでもなく初対面の男であると分かる
この店を始めて十三年
一度来た客は覚えている
今、目の前にいる男は間違いなく初対面だ
「よく降るねぇ、NかいDかい?」
私はそう言って男の素性を探る
「ああ、そうだな。Dをくれ」
次の声は
最初の重苦しい声とは打って変わって軽やかな声だった
だがやはり以前に会った記憶はない
「あんた、どこから来たんだい?」
と聞いてみると
「何でそんなことを聞くんだ?」
と聞き返された
「いやー、こんな雨の日に車にも乗らず歩いてこの店に来る客が珍しくてねぇ」
と言うと
「なるほどね」
と言ってレインコートのフードを右手で少し後ろに下げて
「俺はお尋ね者じゃあないぜ」
と笑って答えた
その顔は意外と若く髪も丁寧に整えられて髭もきちんと剃ってある
浮浪者どころか並みの会社勤めより高級な仕事をしている風貌だ
だが、それが却って私の疑問を尚更大きなものにしてしまった
「いや、気にせんでくれ。こんな下町の物売
りは一番狙われやすいんでな
と詫びを入れると男は納得するよに頷いて
「分かってくれればそれでいいんだ」
とまた笑った
「何年ここで商売をしているんだい」
今度は男の方から聞いてきた
「もう、十年以上ここでやっているよ」
と答えると
「一人で寂しくは無いのかい」
と言ってきた
「寂しいと思うのは家族がいる奴だけだ。天
涯孤独の身寄りもないジジイは思いもしないよ」
と返した
すると男は寂しそうな顔をしてうつ向き黙っ
たまま何も言わない
私は工合でも悪くなったのかと心配になり
「どうしたんだい。大丈夫かい」
と声を掛けた
男は右手を上げて前後に揺すり大丈夫と伝えたがその顔は泣いているのだと分かった
男は後ろを向いてうつむき溢れる涙を止めようと努めて暫くは動かなかった
泣いているんだ、だが何故
私の考えも及ばない事態がこの男に降りかかっている
そう思えた
やがて男はこちらを向いて
「すまん、別に何処か具合が悪い訳じゃない
から安心してくれ」
と男は赤く腫らした目を隠すように右手を顔
に当てたまま言った
そして溢れる涙を拭いて暫くしてから
「驚かせてすまん。もう大丈夫だ」
と言い
「いや、何だかあんたを見ていたら生き別れ
た父親にだぶってみえて」
と言った
「その人は元気にしているのかい」
私は気になって聞いた
「病気なんかしていたら寂しくなるもんさ。
気が落ち込んでいれば尚更だ」
そういうとその男は
「ああ、一人で暮らしようだが元気でいるらしい。実はやっと居場所を探し当てて今から会いに行く所なんだ」
と男は言った
「そうかい、行っておやりよ。気丈に暮らし
ているようで内心は心細いもんさ。たまに顔
を見せてやったら喜ぶよ」
私は何だか嬉しくなってその男に言った
「新聞は私の奢りだ、持っていきな。いいか
らいいから」
そう言って男に新聞を持ち帰らせた
「ありがとう、遠慮なく貰っていくよ。また
ちょくちょく来るからよろしくな」
男はそう言って帰って行った
「家族か…そうだな。いや、今さらな」
私は自分の境遇を嘆いていない
忘れた過去がどんなものだったのか今は知るよしもないが知ろうとも思わない
降る雨はやむ気配もなくて今夜はもう来客もないだろう
「店じまいにするか」
雨に濡れながらシャッターを下ろした

「父さん、元気そうだったな」
事故に合って記憶を失ったまま何処かへ行ってしまった父だった
俺はやっと探し当てた父に今日、会いに来た
スタンドをやっていると聞いて覗いてみた
思ってたよりも元気でしっかりしていた
「まだまだ働けるし張り合いになっているようだ」
いずれ話すか話すまいか
今は
通りすがりの男でいよう

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