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27年前の今日、1月17日に私に起きた事

27年前の1995年1月17日。
私は兵庫県加古川市で阪神淡路大震災を経験しました。

今は親元を離れて自立したい願望強めの、遅いプチ反抗期な息子がまだギリギリお腹の中にいました。
息子は1995年生まれなのです。
彼の歳はすなわち震災からの年月です。

ちょうど人生初の産休に入った日で、さてこれから子どもが生まれるまでのほんの少しの自由時間をどう過ごそうか、と楽しみにしていた日でもありました。

実際、産休中に覚えようと思い、当時やっと一般家庭用に普及しだしたWindows 95のパソコンを大枚はたいて買っていました。

その日は3連休明けでした。


⭐️当時、私の両親はまだ神戸市東灘区の福祉専門学校で働いていたので、東灘区に小さなアパートを借り、たまの週末には神戸より約50キロ西側にある、わたしたちが居住する加古川の家に来ていました。(もともとここは両親が建てた家でした)

普段なら翌日の授業に備えて連休最終日の夜には東灘の家に戻るのですが、この日は朝ゆっくりでよかったため、加古川から出勤することにしていました。
あのひどい揺れを両親は神戸で体験しなくて済んだのです。
運命ってこういうものなのでしょうね。

午前5時46分。
まだあたりは真っ暗でした。
加古川もとんでもない突き上げの縦揺れに襲われて家族みんな飛び起きました。
加古川の家は今の家に建て直す前の古い家でしたが、幸い棚から物が落ちただけですみました。(震度にするとこれでも4くらいじゃないかと言われています)

当時、関西は地震が少ない神話みたいなものがあり、関西から関東の大学に行った友達も地震が少ないと言う理由で関西にUターンしたほどでした。

ですから、ここがこんなに揺れるんなら関東が壊滅しているのでは?!いや、地球規模でどうにかなったんじゃない?!という想像が一瞬頭の中を駆け巡りました。

ここ、東播磨地域でもしばらくは混乱で停電になったりしましたがすぐに復旧したのだと思います。

空が白み始めた頃、テレビが伝えてくれたのは【ぺちゃんこの家】【あちこちで上がる煙】【横倒しの阪神高速】。

え?これ、『神戸の話なん?!』


その時初めて、地球規模の話なのでも関東の話なのでもなく、関西の、しかも私の第二の故郷神戸の話なのだと知りました。(のちにもっと広い範囲、阪神淡路であるとわかります)

幸い両親は私たちと一緒にいたので無事でしたが、神戸には親戚も知り合いも友達も沢山います。
その人々の安否がほとんどわかりませんでした。
電話なんて家もろとも潰れていたら何の役にも立たないし、たとえあっても繋がらないし、もちろん携帯が普及している時代じゃないし、通信手段はないに等しかったのです。

それから毎日のように新聞で報じられる死亡者の氏名欄を≪知り合いがいないことを確認するため≫に一文字一文字読みました。

父の古い知り合いで私のことも可愛がってくださっていた年配の男性と、私の中高の同級生が一人亡くなってしまいました。

二人ともご家族は同じ家の中で助かっておられて、物がどこにあったか、梁がどう張り巡らされていたか、地盤が岩盤だったか、断層に沿っていたか…そんなほんの小さなできごとが運命を分けていました。
人の運命って何だろう…って改めて感じたのでした。


⭐️父には持病がありいくつかの薬を内服していましたが、連休3日分しか持ってきていなかったので、かかったこともない近くの医院に訳を話して処方してもらいました。

当時はお薬手帳なども普及しておらず、父は保険証すら持たずに帰宅していました。
ですが、のんでいる薬を口頭で伝えただけで処方してくださり、お金も保険証を持ってきてくれた時でいいよと一銭も取らずに診療してくださいました。

有事の時の専門職の優先順位と心意気ってかっこいいなぁと感動したのでした。


⭐️父は、発災数日後から神戸市長田区に住む遠縁のおば(私から見ると祖父の従姉妹という遠縁ですが、戦争孤児で父たちと一緒に育った人だそうです)を探して近くの小中学校を巡りました。

父はそのおばの所在を避難所で探し当て、燃え盛る火の側を通り、自家用車の底を瓦礫でボロボロに擦りながら加古川に連れ帰りました。
燃えている火の横の国道を通るとき、車が熱かったのだと話してくれました。

被災後数日経っていた頃のことだったと思います。

まだ、今の二世帯住宅を建てる前だったので我が家は六畳や四畳半などこじんまりした間取りの3LDK+増築部分のみ。

そこに大人が6人(我々夫婦、両親、おばさん、そして毎年正月あたりは熊本からひと月ほど遊びに来ていた母方の祖母がまだいたので大人6人)で何となくぎこちなく共に暮らし始めました。

おばさんは、被災後一週間ほどして初めてお風呂に入り、やがて安全が担保され寝食が満たされると、やっと自分の身体の痛みに気づいたようで、『胸が痛いねん』と教えてくれました。

母が以前勤めていた病院の院長に診察してもらったところ、肋骨が折れていました。
地震の時、箪笥の下敷きになっていたそうで、その際の怪我でした。

震災関連の負傷者を把握する必要があったのか、おばさんの怪我をした状況はとても細かく聞き取りされました。

人間ってとんでもない非日常の中では骨折の痛みも飛んでしまうのだなぁ、と驚いたものです。

そのおばさんは我々が助けに来てくれたのをとても喜んではくれましたが、生涯独身でしたし元来1人で暮らすのが好きな人だったので、長く他人と暮らすのは気詰まりだったのでしょう。
毎日のように新聞を読み、復興住宅の申し込みがあればすぐに電話をし、1ヶ月ほどでここより更に西の姫路市営住宅を自分で申し込んで移っていきました。

その後10数年、その市営住宅での一人暮らしが難しくなるほど高齢になるまで、ほとんど自活していました。
最後の数年だけは私たち家族の近く(加古川市内)に引っ越し、怪我をしたり病気になったりした時の入院の際のお世話をさせていただき、お看取りは私がしましたが、最後の最後までとにかく自立心の強い人でした。


⭐️両親が東灘で住んでいた二階建てのアパートはアパート全体の中心部分を支点にやじろべえのようになり地面を掘るように揺れたようですが、幸いアパートの形は残っており、物を持ち出すことくらいはできました。
他の住人さんも皆無事でした。

両親が勤務していた専門学校と隣の短大は急拵えの避難所のようになり、地域住民さんやアパートで一人暮らしの学生さんたちが身を寄せていました。

母の教え子の学生さんたち、何故この二人がこんな朝方に一緒にいたの?
そこから一緒に避難してきたの?なんて仲良しな話もバレちゃったりしました。
みんななんとか無事で何よりでした。

水は長い間出なかったので、学校の近くを流れる小川から学生さんたちがバケツリレーで汲んでトイレ用などに使っていました。

この学校は神戸市東灘区にありました。
ホールに置いてあったグランドピアノが脚三本を上向きに、掛けてあったカバーをきっちり下に敷いてすっかり天地ひっくり返っていましたから、その突き上げの凄まじさがわかります。


⭐️私はというと、産休に入るほどの大きなお腹でしたのでほぼ役立たず。
ひたすら加古川で買い出しや、父が神戸から『風呂に入れてやってくれ!』と連れてきた学生さん留学生さんたちを近くの国民宿舎の浴場に連れていく運転手をしたりしました。

当時、隣市の明石にも水が出ず給水車に頼っている地域がありました。
私たちが住んでいる地域がぎりぎり被災していない一番東の都市でした。
どこのスーパーも助けに行く人たちの買い出しでごった返しており、お風呂も小さな田舎の国民宿舎なのに、入場制限するほどの長蛇の列。

どこに行っても混雑していて、神戸には緊急車両が優先されるのでほとんど行き来もできず、父は兵庫県の真ん中くらいまで北に上がって下道を通って神戸に行き来していました。

私が勤めていた病院も何とか被災はしていなかったので、産休に入ったお荷物な要員は産休のままでいいといわれてしまいました。

震災から39日後、私は加古川で長男を出産しましたが、ここ加古川市には被災地からもたくさんの妊婦さんが移ってこられていて、新生児室は赤ちゃんで溢れかえっていましたっけ。

普通、産まれた直後は見に来る家族のために窓の近くに寝かせてくださるようなんですが、我が子は新生児室の隅っこに追いやられておりました😅


というわけで、正直なところ、燃え盛る炎も、横倒しのビルも、ぺちゃんこの家も私の両目は現実には直視していません。

それでも、私が育った街、懐かしい場所はことごとくつぶれ、私たち夫婦が披露宴をした老舗の中華料理店もなくなってしまったことが悲しくて仕方がありません。

街が少しずつ復興していく姿を見るにつけ、嬉しさはもちろんありましたが、街が変貌していく寂しさは如何ともしがたい気持ちでした。

そして、明日は当たり前に来ないんだということを一番初めに知ったのはこの時だったように思います。


その後。
何年目かの節目の年や土日で宿泊しても大丈夫な日程の時には、息子と一緒に神戸三宮の東遊園地にお祈りに行きました。
家からたった50キロなのですが、5:46に三宮に到着できる電車はないので前泊が必要なのです。

この50キロが被害の差なのですよね。

実際に体験したわけではなくとも兵庫県南部の人たちはその後何度も何度も追体験をする機会がありました。
6000人以上もの人々1人1人に刻まれた物語に接する機会がありました。

何度も何度も泣きながら1月17日を大切に思ってきました。

体験された人方の気持ちがわかるはずはありませんが、【我がことのように思う気持ち】【共感】を大切にしつつ、子どもたちとこの日のことを語り合い伝えあい、未来に向けて考えていく存在でいたいのです。

そして今日も心からお祈りします。

今生かされていることには必ず何か理由があると信じ、感謝を込めて生きていきます。



最後までお読みくださりありがとうございました。

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地域の保健室をしつつフリーランスとしてお仕事している笑顔大好きな【なつまま】が、重度障害であるアンジェルマン症候群のキュートな娘との豊かな生活と、医療や福祉について思うこと、日々の小さな気づき・感動などを綴っております。

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