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キリスト教には夢がある

キリスト教は、愛の宗教。キリスト教には愛がある。そんな風に一般的には言われていますね。神様は愛。イエス様は愛のお方。その通りです。しかし、僕はそれと同時に、キリスト教には夢がある、と思います。

キリスト教には夢がある。教会には夢がある。聖書には夢がある。そう思うのです。

夢とは、何でしょうか?

こうなりたい、あんなことをしたい。そんな風に心をワクワクさせてくれる思いですよね。

夢とは、溢れる思いだと思うのです。

僕は大学生の時、数学の証明問題に出会い、そこから数学がとても好きになりました。ちょっと人より好きになるのが遅いのかもしれませんが、数学がすごく好きになってから、数学者にとてもあこがれを持つようになりました。

特に僕があこがれていたのは、コンピューターの基礎を作ったIQ300のフォン・ノイマン。天才的な数学者で、僕の好きなゲームの理論という数学の分野を作り出した人でもあり、電車で移動中に頭の中の考えを紙に走り書きした内容が今の世界中に広まっているコンピューターの設計の基礎になっている、そのような考えを生み出した人でした。

本当にかっこいいなと思いましたし、そんな風に僕も難しい問題にチャレンジしてみたい。難しい数学というのもやってみたいし、自分の考えや発見で世の中の役に立ちたい、そんな風に思っていました。

しかしながら、現実は厳しいもので、僕の能力など極めて凡人レベルで、彼らと比較するなんて言語道断、普通の数学者として歩むことすら、自分の実力は到底及ばないなと感じたことを覚えています。

しかし、僕の目はその時キラキラと輝いていました。数学の問題を考えるのはとても楽しかった。そして、数学の問題を大学で学んでいる時、楽しい数学を目の前にして、その分野で活躍してきた有名な人たちを見て、心躍らせ、胸を膨らませていました。これこそ、まさに夢なのかな、と。

夢とは、溢れる思いなのだと思います。あふれてくる思い。

自分の中から泉のように湧き上がってきて、期待と興奮で胸が高鳴る。そういった思いが心の内側からあふれてくる、そういったことが夢なのだと思います。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

使徒の働き 2章1~4節

まさにこの五旬節のペンテコステの日のように。そこにいた人たちが聖霊に満たされて、まるでお酒に酔っているかのようだった。

聖書には書いてありませんが、その時、聖霊が下った人たちは、心からあふれる喜びや、希望があり、喜びに満ち溢れて、心から湧き上がる思いに、ただただ歓喜していたのだと思います。

夢とはまさに、これに似たものがあるのではないのかなと思います。

心から湧き上がる思い。心から泉のように、期待と、喜びと、希望があふれてくる。これがまさに夢だと思うんです。

大学生の時の僕は、確かに能力としては平凡ではありましたが、この喜びと期待に満ち溢れて、毎日の勉強を楽しく学んでいくことができたのだと思います。

この喜び、溢れる思いこそ、夢であり、この夢こそ、日常を輝かせてくれるものだと思うのです。この溢れる内側の思いこそ、人生を喜びで満たし、希望に満ち溢れるものとしてくれるのだと思うのです。

では、その夢はどこにあるのでしょうか?

立派な人の中に夢があるのでしょうか?ちゃんと頑張っていて、成果を出していて、頑張っている人に夢があるのでしょうか?

そうではないのだと思うのです。

僕の大学生の頃の話に戻りますが、僕はあんまり数学が得意なほうだったわけではありません。むしろ計算とかは苦手でした。でも、証明問題がとても楽しかった。だから数学が好きになったんです。それでも全体的には数学が得意いえるほどではないということはよくわかっていました。

でもそんなぼくだからこそ、夢を見ることができたんです。天才数学者の人たちに憧れて、夢を見ながら大学生活を送ることができたんです。


夢は弱い人たちに中にあるんです。

すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。

「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。

イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。

マタイの福音書 9章20~22節

この聖書個所は、長血をわずらった女性の有名なお話です。

この女性は長年、本当に苦しんできたんだと思います。ものすごく苦しかったでしょうし、痛かったでしょうし、本当につらかったと思うんです。でも、そんな彼女には、希望がありました。夢がありました。癒されたい。救われたい。

イエス様はその夢に答えてくれました。彼女の夢を叶えてくださいました。

小さき弱き者の夢を愛をもって叶えてくださったのです。奇跡を起こしてくださったのです。

ここにキリスト教の夢があるんです。

弱い私たちの中にこそ、「良くなりたい」という夢があって、イエス様はそれを叶える力がある。

イエス様がその思いを叶えてくださると私たちが信仰をもって歩んだ時、その信仰を祝福し神様はその夢を叶えてくださるのです。

キリスト教はここに夢があるんです。

どんなことでもできる神様がいて、私たちを心から愛してくださるイエス様がいて、弱い私たちが、か細いささやかな小さな夢を、心の中であふれさせるときに、神様は愛をもってそのことを叶えてくださるのです。

これこそ、イエス様、神様の愛であって、これこそが聖書の神であり、神の愛であり、本当の夢の実現なのです。

だから、キリスト教は夢があるんです!!!

私たちの小さな夢、しかし内側では溢れてくる本当に心からの希望を持った時、そして神様が叶えてくださると信じたとき、その夢は現実のものになるんです。

それが私たちの希望です!

その夢が叶った時、私たちはハレルヤ!と叫び、神をほめたたえるのです。そして、自分に起こったことをほかの人に伝えずにはいられなくなるのです。そしてそれを目の色を変えて伝えている時を神様は何とも微笑ましく喜びながら見てくださっているのです。それがキリスト教徒の歩みであり、キリスト教にある希望だと思うのです。

イエス様は希望です。神様は希望です。そして愛です。

この神に信頼し夢を見て、喜びに満ち溢れていきましょう!


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