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ぼくの明日 by やぐちけいこ

その言葉だけが記憶に残ってそれがいつの出来事で誰から言われたか全く覚えていない。
もしかしたら自分の妄想? 夢?
ずっとずっと心の中に引っかかって抜けないのだ。
普段は忘れていても急にこの言葉が脳裏によぎってくる。
一度思い出してしまったらしばらくこの言葉に呪縛されたように頭から離れない。
そして今この時もこの言葉に縛られている自分がいる。
「また明日会いに来るから待っててね」
そう優しくも、悲しくもとれる感情がこちらに伝わってくる。
誰からの言葉だったろうか。何故自分は覚えていないのだろうか。
濃い霧の中を彷徨っている感じがして不安がこみ上げてくる。
外では物が解体されるようながれきがこすれ合うような音がする。
だからあえて考えないようにしている。
なのにある時気づいてしまった。
自分は待っているのだ。
ずっとずっと長い間、気が遠くなるような長い間待っていることに。

綺麗な街並みの一角のガラスウインドウ。
行きかう人々が自分に目を向けてはそらし目的地に急ぐ。
そんな人を見送る毎日。退屈と物珍しさが交互に繰り返される感情。
何度目かの季節が廻ったある晴れた日。
小さな女の子がこちらをじっと見つめている。
隣にいる母親に手をつながれ足をとめてじっと見つめてくる。
「お母さん、このくまさん可愛いね」そんな言葉が聞こえてきた。
「そうね。このくまさんはたくさんの人を毎日見送ってくれているのよ。
お母さんが小さいころからここに座っているんですもの」
「そっか。すごいね! バイバイ。また明日ね」
バイバイと手を振って母親に手を引かれいつまでも振り返っていた小さな女の子。
その子は小学生になりランドセルを見せに来てくれ、やがて制服を着るようになりぼくの前を通り過ぎて行った。
たくさんの友達と一緒に話しているのは恋バナなんだろうか。
あの頃のようにこちらを見ることも無くなってしまった。
忘れられてしまったのだろうか。あの子は成長とともに見向きもしてくれなくなった。どんどんぼろぼろになっていく自分。
職人によって服を変えられほつれた場所は綺麗に縫われ、中綿も取り換えてもらい、女の子に手を振ってもらえた自分はどこにもいない。
ただ自分の記憶の中に残る女の子の魔法の言葉が忘れられない。
ねえ、忘れないで、また足をとめてこっちを見てくれない? そして手を振って欲しいのに。
ほら今日もあの女の子が通り過ぎる。隣には男性がいてとても仲良さげに通り過ぎていく。そっかもう少女ではなくなったんだね。
あぁ、もうあの子の中には居ないんだ。ぼくの存在は無くなってしまったんだ。真っ暗な心の中にポツンと一人膝を抱えると少しだけ安心出来る。
でも、でも、一人ぼっちは怖いよ、寂しいよ、嫌だよ。
やがて修理もされなくなったぼくは縫い目から綿が見えるようになり片目が取れ足は引き千切られたように無くなった。
通り過ぎる人たちの声が聞こえてくる。
「このお店潰れちゃったんだって。もうすぐ解体されるらしいよ」
ぼくはこのお店と一緒につぶされてしまった。
漠然とした記憶だけがふわふわと漂う感覚だけになった。

ぼくの明日はなかなか来ない。きっと永遠に明日は来ない。
どれだけ日が昇ろうと日が沈み夜空を見上げようとぼくの明日は永遠に来ない。

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