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球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立

大学からの入団がなかった理由

2009年ごろから、選手を求めて第一工業大学(現・第一工科大学)を中心に視察に回っていた國本代表。
監督にも挨拶して想いを伝え協力を取りつけてはいたものの、実際のところは一人の入団も叶わずにいた。

それはなぜだったのか。

実は少し前まで、ドリームウェーブはあまり野球に対して厳しさのあるチームではなかった。

球場にスリッパ履きで現れたり、当たり前にくわえタバコだったり。
ヒストリーでも最初のころに何度か書いている。

しかも当時は練習の参加率が低く、戦績も安定しない。
社会人野球チームというより、草野球チーム感が抜けない。
このことは、歴代の指導者、主将たちが頭を抱えているところでもあった。

実際その様子に、OP戦などで関わる大学生たちは引いていたという。
ほぼ毎日の厳しい練習が当たり前の大学生から見ると、それは自由を通り越して身勝手な行動にも見えたかもしれない。

指導者である大学野球部の監督としても、紹介には値しないという判断が下されただろう。

球団立ち上げのときこそトライアウトで選手を募ったものの、その後は各選手が知り合いを誘う形で入団が決まっていた。
とても和気藹々とした仲のいいチームではあったが、それは同時に馴れ合いになりやすいという危険性があった。
もちろん、その仲の良さが団結力という形で大きく実を結んだのが2012年の全国大会出場だったのだから、チームの魅力でもあったわけだけれど…
ただ、学生たちから見て憧れるかというと、否。

新卒での入団がなかなか叶わない理由のひとつだった。

第一工大からの入団

風向きが変わったきっかけは、やはり全国大会への出場。

2013年は大学から新卒またはそれに近い形で入団してくる選手が15人中なんと半数ほどもいた。
それまでは皆無だったのに、だ。

記念すべき第一工業大学からの紹介第一号は、内野手の植村剛選手。
一旦は県外に就職したもののすぐに帰鹿することになったため、第一工大の岡留監督から入団の打診があったという。
すでに数人が所属していた弓場建設株式会社(現・ユーミーコーポレーション株式会社)へ斡旋。

植村選手だけではない。
内野手の脇園和人選手は「めちゃくちゃ上手かった」ため企業チームからも引く手あまただった。しかし当初は大学限りで野球を辞めようと思っていたそうですべて断り、結果的に地元でプレーを続けることができるドリームウェーブへの道を選んだ。

さらに戸柱光亮投手と、第一工大からはこの年3人の選手が入団した。

全員、こののちの主力となっていく。

地元で野球が続けられること

鹿児島大学からも数人、新卒での入団があった。
前年、就職斡旋第一号として北迫太樹さんが入団したが、彼も鹿児島大卒。
大学野球部の先輩が在籍し活躍していることは、大きなきっかけになったのではないだろうか。

そしてこの年いちばん注目を浴びたのは、愛知学院大学から入団してきた内野手の大迫健斗選手。

樟南高校時代にはプロのスカウトが見に来ていたというし、大学では全国準優勝を果たした名選手だ。
すでに家庭を持っていたため、野球を辞めて地元鹿児島で就職をと考えていたようだが、ドリームウェーブなら鹿児島で仕事をしながら野球を続けられる!その魅力は大きかったに違いない。
当時、テレビ局からの取材もあった。

入団ルートの確立

数年も足踏み状態だった、大学や高校からの入団が一気にチームのスタンダードとなったのがこの年。

硬式野球を続けるなら県外に出る。
県内での就職なら硬式野球は諦める。
それまではこの二択だった鹿児島の野球少年たちに、「鹿児島ドリームウェーブで硬式野球を続ける」という選択肢が生まれたわけだ。

球団創立当初からどこかでずっと願っていた『鹿児島で野球を続ける、その受け皿となる』こと。それが少しずつ形を帯びてきた。

そして、就職を斡旋するとなると全く知らない選手を右から左と紹介するわけにもいかない。自然と、國本代表を通しある程度の意思確認などを経て加入するという流れができた。

草野球感が消え、おのずとチームカラーが整っていった。

天真爛漫な野球好きの集まりから、上を目指す社会人野球チームへと変わっていったのも、このころからかもしれない。




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