加納かおり

鹿児島県の高校野球初代野球ウグイス嬢。 野球は好きだし長年関わってきましたが、社会人野…

加納かおり

鹿児島県の高校野球初代野球ウグイス嬢。 野球は好きだし長年関わってきましたが、社会人野球という世界はほとんど知りませんでした。そんな社会人野球素人から見た社会人野球クラブチーム『鹿児島ドリームウェーブ』の球団ヒストリーや悲喜こもごもを中心に書いています。

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  • 鹿児島ドリームウェーブ球団ヒストリー

    2005年に、イベントをきっかけに誕生した社会人野球チーム『鹿児島ドリームウェーブ』。生まれては消えていく球団が多い中、17年目を迎えた2022年現在も「クラブ日本一」を目標に走り続けています。 そんな鹿児島ドリームウェーブ誕生からの紆余曲折を、いちファンであるライターが綴ります。

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最近の記事

球団ヒストリー70.積年の課題、練習場所の確保Ⅱ

なぜ今、このことについて書くのか? ところで、今になって練習場所の確保について書こうと思ったのはなぜか。 ひとつは、実際に2024年現在のマネージャーさんが練習場の確保に苦心している様子を間近で見ているから。 もうひとつは、『球団ヒストリー67.初の試み、自治体との協定』を取材したときの疑問。なぜ社会人野球クラブチームが、自治体と協定を結ぶ必要があったのか?ということ。 そこには、とにかく練習場所を確保したいという強い願いがあったと知ったからだ。 逆になぜ、今までこの

    • 球団ヒストリー69.積年の課題、練習場所の確保Ⅰ

      週末夜の必然 鹿児島ドリームウェーブが正式発足した2006年ごろ(当時のチーム名は鹿児島ホワイトウェーブ)、練習は週末の夜に限られていた。 これには理由がある。 球場が取れない。 クラブチームの特性上、ほぼほぼ全員が仕事との両立をしている。 中には野球優先のためにフリーターという働き方を選択している選手もいたようだし、中には求職活動中の選手もいただろうけれど、それは稀。 全員が別に本業を持ち、休日や終業後の時間を野球に充てているのが実態だ。 となると、全体練習ができる

      • 球団ヒストリー68.レジェンドの男気

        「もうやめるか?」 「監督を引き受けてくれる人がいない。もうやめるかな…」 鹿児島市城南町のファミリーレストラン”ガスト”で、球団代表國本正樹さんはそう弱音を吐いた。 そばで聞いていたのは、当時のマネージャー藤崎順子さん。 ふだんはこんな表情を見せることはないが、このときばかりは國本代表も意気消沈していた。 末廣監督の退団は早々に決まっているのに、後任となる監督の糸口さえも見つかっていなかったからだ。 そもそも飲み友だちだった順子マネに、「俺もうどうしていいか分からな

        • 球団ヒストリー67.初の試み、自治体との協定締結

          2013年、当時の本拠地ともいうべき伊集院球場を持つ鹿児島県日置市と、ある協定を結んだ。 『スポーツによる元気で健康なまちづくりの推進に関する協定』だ。 このことについては、さきの記事で少しだけ触れた。 背景 社会人野球クラブチームと自治体が、協定? 正直なところ、スポーツをただ好きで見ているだけだった私には、なぜそんな必要があるのか理由が分からなかった。 実は、その背景にあるのは練習場の確保という積年の課題。 鹿児島ドリームウェーブは、専用の練習グラウンドを持っ

        球団ヒストリー70.積年の課題、練習場所の確保Ⅱ

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        記事

          球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事

          熱意の大功労者 2007年、初代監督の鵜狩道夫さんが急に退任されたことにより、思いがけず監督に就任した末廣昭博さん。 コーチを引き受ける予定でチームに合流した矢先のことだった。 末廣さんは、以前鹿児島にあった社会人野球チーム『鹿児島鉄道管理局野球部』に所属していた。国鉄の分割民営化に伴い1987年(昭和62年)に廃部となったが、当時は鹿児島唯一の社会人チーム。 つまり社会人野球の厳しさをイヤというほどご存じの上で、野球への熱意をずっと持ち続けている方だ。 その丁寧な指導

          球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事

          球団ヒストリー65.“新時代”サイドストーリー

          就職斡旋が軌道に乗り、また大学からの入団ルートが確立された2013年。 それにより戦力が増強され、公式戦で人数が足りないなんて心配もほぼなくなった。 この年の目標は、2012年に果たせなかった全国での一勝。 しかし、予想に反して戦績は振るわなかった。 公式戦は3試合のみ、1勝2敗。 これについては、『球団ヒストリー61.動物園⁉』に詳しく書いてあるので読んでいただけたら嬉しい。 しかし2013年は、戦績以外のところでこれまでとは違う動きがいくつもあった。 海外プロ野球チ

          球団ヒストリー65.“新時代”サイドストーリー

          球団ヒストリー64.財政面の救世主と功労者

          前回も少し触れた『支援型自動販売機』設置の経緯とそれに関わる方々について、ここで改めて書いてみようと思う。 恵まれてはいたものの そもそも欽ちゃん球団茨城ゴールデンゴールズとの野球イベントのために結成された鹿児島ドリームウェーブ(設立当初は鹿児島ホワイトウェーブ)。 そのためユニフォームやヘルメット、バット類は、すでに用意されていた。 そういった道具類の心配がいらなかっただけで、とても恵まれていたとは言える。 しかし正式に社会人野球クラブチームとして登録したときはその

          球団ヒストリー64.財政面の救世主と功労者

          球団ヒストリー63.スポンサー企業に訊く~(株)ゼンケイⅠ

          2024年現在、鹿児島ドリームウェーブで一番多いのが株式会社ゼンケイの所属選手・スタッフだ。 少なくとも私が関わり始めた4年前からはずっとこの状態が続いている。 「ゼンケイの選手だけでチーム作れるんじゃない!?」なんて冗談めかして話したこともある。 それくらい選手を受け入れていただいているわけだ。 ホワイトウェーブ設立前から 株式会社ゼンケイさんとの関わりは、一夜限りの予定で立ち上がった鹿児島ホワイトウェーブ時代から始まっていた。 先代社長の時代からスポーツ支援に積極的

          球団ヒストリー63.スポンサー企業に訊く~(株)ゼンケイⅠ

          広報だより~2023年シーズンを振り返って③個人賞

          今季の締めに、11月24日の納会で発表された個人賞もご紹介しておきたい。 個人賞 【本塁打王】  背番号38 上村大希 選手[ユー三―コーポレーション(株)] ~本塁打3本 打率3割1分~  今年新設されたタイトル、本塁打王。  実は上村選手の直訴によるもの。  「3割、3本」達成したら新設するとの約束を果たし、有言実行。 【敢闘賞】  背番号43 田中辰憲 投手[(株)リンクエージェント] ~9試合登板 2勝0敗 防御率2.08~ 登板試合数、投球回数ともにぶっちぎり

          広報だより~2023年シーズンを振り返って③個人賞

          広報だより~2023年シーズンを振り返って②主観的トピックベスト3

          1.フィジカルとメンタル 戸嶋監督が、昨年の就任直後に話しておられた。 「フィジカルが鍛えられていないと、メンタルもついてこない」。 一年前の彼らは体力がなかった。 すぐにバテて気力もなくなっていた。 勝ちきれず長ったらしい試合をして疲れ果て勝ちを逃す、そんなチーム。 今季は違った。 前半は勝利という形にはうまくつながらなかったが、少なくともダラダラと長い試合はほとんどなかった。 ダブルヘッダーでもヘバっている選手はほぼいない。 体力がついた!そして同時に気力で負けな

          広報だより~2023年シーズンを振り返って②主観的トピックベスト3

          広報だより~2023年シーズンを振り返って①戦績

          2023年12月24日、姶良球場にて今年最後の練習が選手全員参加で行われ、チームは冬期休暇に入った。 球団広報としても関わる私の非常に個人的な視点から、2023年シーズンを振り返ってみたい。 3話に渡るとても長い文章になってしまいましたが、よろしければお付き合いください。 2023年度の戦績 今年の戦績は、12試合8勝4敗、勝率6割6分7厘。 内訳は以下のとおり。 【第94回都市対抗野球大会一次(南九州)予選】 4/22(土)~4/23(日)   ★0-7(7回コール

          広報だより~2023年シーズンを振り返って①戦績

          球団ヒストリー62.監督という重責

          監督退任!? ところで、実は2012年限りで当時の末廣昭博監督は退団を決めていたという。 「確か送別会までしたはず」と教えてくださったのは、元マネージャーの藤崎順子さんだ。 ホワイトウェーブ時代の2007年、初代監督鵜狩さんの退団を受けて監督に就任した末廣さん。 「コーチを引き受けるつもりでチームを見に行っていた」はずだったのに、あれよあれよと監督に就任して早6年が経っていた。 気づけば球団創設からの大部分を、末廣監督が率いていたことになる。 全国大会出場というひとつの

          球団ヒストリー62.監督という重責

          球団ヒストリー61.動物園⁉

          即戦力の入団 2013年の新入団は15人。新卒でブランクのない選手も多い。 全国大会に出場したことでチームの魅力が高まったのか、久しぶりに華やかな経歴を持つ選手も入団してきた。 実力もあり、まだまだ体力気力とも上り調子な若い選手たちは、もちろんほとんどが即戦力。 チームは若返り、個々の能力もグッと上がった。 期待大だ。 個々の強さとチーム力 ところがコトはそううまくは運ばなかった。 当時のキャプテン北迫太樹さんの言葉を借りるなら「まるで動物園でした」。 かなり個性強

          球団ヒストリー61.動物園⁉

          球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立

          大学からの入団がなかった理由 2009年ごろから、選手を求めて第一工業大学(現・第一工科大学)を中心に視察に回っていた國本代表。 監督にも挨拶して想いを伝え協力を取りつけてはいたものの、実際のところは一人の入団も叶わずにいた。 それはなぜだったのか。 実は少し前まで、ドリームウェーブはあまり野球に対して厳しさのあるチームではなかった。 球場にスリッパ履きで現れたり、当たり前にくわえタバコだったり。 ヒストリーでも最初のころに何度か書いている。 しかも当時は練習の参加

          球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立

          球団ヒストリー59.新時代~キャプテン交替

          優しいキャプテン 解体の危機から九州制覇、全国大会初出場という激動の時代を牽引してきたのは、キャプテン芹ケ野拓選手。 当時の末廣監督との信頼関係は厚く、印象に残る選手として末廣さんは彼の名前を真っ先に挙げておられた。「真面目で一生懸命だった」と。 登録名簿を遡ると、社会人野球クラブチームとして正式に発足した2006年から在籍している芹ケ野さん。 チーム改革前の壊滅的出席率だった練習にも欠かさず参加し、とにかく野球が好きで仕方がない、ということがありありと伝わる選手だった。

          球団ヒストリー59.新時代~キャプテン交替

          球団ヒストリー58.就職斡旋草創期

          先述したように、2012年から就職の斡旋を始めた鹿児島ドリームウェーブ。 受け入れ先企業であるユーミーコーポレーション株式会社(当時は弓場建設株式会社)の理解もあり、就職斡旋第一号の捕手・北迫太樹さんと、第二号の内野手・田上幸司さんは、確実に試合に出られるようになった。 職場に遠慮することなく野球を優先できる環境。 主軸が仕事で抜ける心配がないこと。 それが持つ意味は、チームにとってとてつもなく大きかった。 その結果が、初の全国大会進出に繋がったと言っても過言ではないだろ

          球団ヒストリー58.就職斡旋草創期