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球団ヒストリー17.野球談議

監督が全体をよく見て大筋の指導方針を固め、細かい指導はその右腕としてのコーチが行う。首脳陣がいつも”野球談議”に華を咲かせ、ときに激論を交わしながらもお互いの考え方をすり合わせていく。
これは、チームが強くなっていくために必要なあるべき姿なのだと思う。

でも、走り出したころの鹿児島ホワイトウェーブは少々違った。


2005年、欽ちゃん球団とのイベントのとき監督を務めたのは、定岡正二さん。
とはいえイベントだから。ほぼ試合当日だけの監督であった定岡さん。
実際に入団テストから選手たちと関わったコーチ陣は、元プロ野球選手の鵜狩道夫さんと斉藤巧さんだった。

まさかこのチームが、イベント後に社会人チームとして正式に発足するなど、お二人はこのとき予想していたのだろうか?
イベントからの流れで、初代監督コーチに就任したお二人。ホワイトウェーブがこんなに長く活動すると予想していたら、もしかしてお互いに違うコミュニケーションを交わし、違う関係性があったのかもと、今いろいろお聞きしていると思うこともあるのです。

プロでも指導経験がある斉藤コーチがおっしゃっていた「どうなっていくのかな」という漠とした不安は、監督と“野球談義”ができないことにも起因していたのかもしれないなぁって。


ときどきグラウンドに訪れる鵜狩監督は、選手と談笑こそするけれども指導らしい指導はなく。愛されていたが、それは指導者としてよりも”野球の話ができる気さくなおじちゃん”な感じだった。

また、球団代表の國本正樹さんはまだ30代で選手たちと年齢も近い。欽ちゃん球団とのイベントのときには共にプレーしていたことも手伝って、心の距離は國本さんのほうがぐっと近かった。
「このチームは鵜狩さんのチームではなくて、國本さんのチームなんだな」。
そう表現する方もおられたらしい。

鵜狩監督と、斎藤コーチと、國本代表が関わった事件。


これが影響したかどうかはさだかではないが、鵜狩監督-斉藤コーチという布陣でのチーム運営はまもなく幕を下ろした。

チームの正式発足から約1年。イベントから数えても、1年半ほど。

國本代表によると、その後も斉藤さんとは野球談議をすることがあったが、鵜狩さんとはご縁がつながらなかった。
生涯1プレーヤーであったのかもしれない鵜狩さんと、指導者としてご自身の野球理論をお持ちであった斉藤さんが交わることは、きっとなかったのだろうな。
いい悪いではなく個性の違いなのだけれど、やはりその人と”野球談議”ができるというのは、チームを育てていく中で必要不可欠なのかもしれない。


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