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球団ヒストリー62.監督という重責

監督退任!?

ところで、実は2012年限りで当時の末廣昭博監督は退団を決めていたという。
「確か送別会までしたはず」と教えてくださったのは、元マネージャーの藤崎順子さんだ。

ホワイトウェーブ時代の2007年、初代監督鵜狩さんの退団を受けて監督に就任した末廣さん。
「コーチを引き受けるつもりでチームを見に行っていた」はずだったのに、あれよあれよと監督に就任して早6年が経っていた。
気づけば球団創設からの大部分を、末廣監督が率いていたことになる。

全国大会出場というひとつの目標を達成したことで一区切りついたのか、このとき退団を申し出ていたそうだ。

しかし後任が決まらず、「あと一年という約束で」任期延長。

しかし実は、それまでも数年に渡って「今年まで」と退任をほのめかしていた。選手は「やめるやめる詐欺」と笑っていたが、監督の胸中は笑い事ではなかったと思われる。

監督という重責

そもそも、監督というのはストレスもプレッシャーも半端なものではないことは容易に想像できる。

試合で采配を振るうだけではなく、チームの方針を決め船頭として舵を切る。
練習時の現場監督や練習メニュー等の組み立てなど、大きな球団であればコーチがやるであろうことも、ドリームウェーブではコーチとともに監督もその役割を担う。

もちろん時間も体力も必要。

しかも就任当初は週末だけだった練習が、2012年から週に3~4回に増えた。
全国を目指すチームとしては当然だが、必然的に監督の負担も増加していた。

無料奉仕

なんと言っても、当時のドリームウェーブの監督業はボランティアなのだ。

今でこそ交通費程度はお支払いできているようだが、当時はそれすらもない完全なる無料奉仕。
時間体力とともに、お金の負担も末廣監督にのしかかっていたことは間違いない。もちろん、ご本人はそんなこと一切口にはなさらないが。

そもそもコーチのつもりだったのに思いがけずの監督就任。
ご自身でも「コーチのほうが性に合っている」と話しておられた。
その細部まで行き届く丁寧な指導には選手からの信頼も厚かった。
しかし監督となるとまるで違う視点での指導になる。今ひとつ合わないと感じていることを、何年もボランティアで続けていくのは並大抵のことではない。

数年保留状態だった退任が具体的になったのがこのころだ。
2012年に送別会までしたものの2013年も指揮を執ってくださったのは、このチームを路頭に迷わせたくなかったからだろう。

とはいえ、完全ボランティアでこの重責を担ってくださる方を探すのは困難を極めた。

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