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アルジャナン・ブラックウッド「The World-Dream of McCallister」試訳

 3月14日は英国の怪奇幻想作家アルジャナン・ブラックウッドの誕生日です(今年は生誕155年!)。というわけで、短篇の「The World -Dream of McCallister」を訳してみました。すてきな夢を見たのに、どんな夢か思い出せないマカリスター氏と、その夢が彼に与えた影響にまつわる物語です。

カバー写真:Pierre Puvis de Chavannes, Public domain, via Wikimedia Commons (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre-C%C3%A9cile_Puvis_de_Chavannes_003.jpg)

マカリスターの世界夢

アルジャナン・ブラックウッド
渦巻栗 訳

 ひとびとのなかには、どうやら、ときとしてとても鮮やかな夢に恵まれる者がいるらしい。こうした夢が精神に残していく印象は何時間もとどまり、一日中消えないこともよくあるが、夢そのものは目覚めた途端にほとんどすべて忘れられてしまう。「ほとんどすべて」というのは、なにかしらの切れ端や、おぼろげな記憶が残っている場合もあるからだ。いってみれば、しっぽが視界の外へ飛び出して、本体につづこうとしているところをつかんだような具合であり――光り輝く風景や、声や、あるいは言葉のかけらがしばしとどまり、見られたり、聞かれたりした(少なくとも記憶された)のち、意識からそそくさといなくなる。
 しかも、こうした切れ端は、月光のように儚くて――ひどく急いで消えるところは、まるで長居しすぎてしまい、これ以上は知られたくないとでもいうかのようだ――が、共通点がある。つまり、いずれも、なんらかのきわめてすばらしい体験と結びついているのだ。それを裏付けるように、胸を焦がす奇異な想いが湧きあがってきて、夢がつづいてほしい、完結してほしいと願うようになる。細かいところはあいまいでも、あとに残された感情は力強く、なぜか消えてなくならない。この感情をかき立てるのはきまって同じ印象らしく、なじみの心惹かれる場所で、めったにない幸せなひとときをだれかと過ごしていたのに、目が覚めたせいで中断してしまったと感じるようだ。人生はより麗しく、壮大になり、まちがいなく生きるに値するものとなる――どういうわけか、あとになってそう感じるのだ――その体験をすべて思い出すことさえできれば、きっとそうなる。とにかく、夢は終わりを迎える前に中断してしまったのだ。
 この感情はとても根強く、とても痛切なので、精神はすぐさま力を傾注して、それを取りもどそうとするが――どうやっても甲斐はなく、そうした体験はそもそも取りもどせないのだと思い知らされる。夢は消え、力を傾注するほど遠ざかっていく。その上、切れ端もたちまち消えてしまう。記憶の焦点もだんだん合わなくなっていく。ぼやけてあいまいになり、つくりものめいてくる。しまいには、でっちあげもいいところの替え玉にすり替わってしまう。取りもどそうとするたびに、本物はどんどん埋もれてしまい、それを嘲笑うにせものが存在感を増していく。けっきょく頭に残るのは、目覚めた瞬間に広がった感情だけだが、その記憶だけでもよしとしなければならない。
 もっとも、この感情は、場合によりけりだが、しばらくとどまっていることもあれば、すぐ消えることもある。あとになって、さまざまな場面で思いがけず現れる。ときには一日中、出没をくりかえす。やけにしぶといものの、心から待ち望まれており、渇望されているといってもいいくらいだが、現れるたびに弱くなり、薄れていく。たいてい、こうした想いは、夜明けによろこばしい産声をあげて、半日と経たずに死んでしまう。夜になると、眠りにとどめを刺される。完璧に消えてしまうのだ。かつてそれがあったという印象だけが残り、麗しい〈真なる記憶〉の記憶となる。
 夢そのものについてはほとんどなにもつかめないため、どうやら、この夢につきまとう感情のおかげで、心がふしぎなほど軽くなり、霊妙な魔法をかけられたように感じるらしい。というのも、こうした想いは尋常ならざるものなのだ。奥深く、繊細で、とらえどころがないが、まちがいなく実在しており、あいまいながら、しっかりと根を張っている。それが物語る体験は生きいきとしていて、鮮やかで強烈であり、そしてなによりも楽しく、目覚めている間に見聞きすることとは比べものにならない。夢想家にとっては、燦々と降り注ぐ陽光と弱々しい月光のようなものだ――昼間の生活で感じる、いちばん激しい感情でさえ、永久不変ながらも思い出せない現実感と比べると、薄っぺらなかりそめのものに思える。それはまるで、異なる階層の生や、いっそう豊かな意識の存在をにおわせているかのようであり、すべてを思い出したくてたまらなくなる。首を傾げて――ため息をつく。束の間ではあるにせよ、とにかく満ち足りていたのだ。そのときのありさまを思い出すことができれば、日々の暮らしで頭を悩ませることも解決するにちがいない。というのも、はっきりと説明することはできないが、かの失われた幸せな夢は、より完全な意識と結びついており、普段の生は、それの歪みねじくれた影にすぎないのだ。夢のなかでは煌々と光り輝いていたのに、いまでは暗闇をうろついている……。
 こうした夢は、めったに現れないものの、広く知られている。生理学者は、夢の源や、夢が及ぼす影響について、手のこんだ説明を組み立てているにちがいない。もしかすると、このような夢がもとになって、心和ませるいにしえの幻想が生まれたのかもしれない。少数派の考えだが、霊魂は眠っている間に旅をして、頭脳だけでは見いだせない、さまざまものを目撃するというのだ。しかも、それらは、場合によりけりだが、とても強烈だったり、すさまじく美しかったりするため、頭で記憶しようとすれば、普段の暮らしや義務がおろそかになりかねない。完全だが絶対に手が届かない生を覚えていたら、面倒なことをくりかえす日常に幻滅し、絶望してしまうはずだ……。こうした優美な壮麗さとうまくつきあえるのは、おそらく狂人か詩人だけだが、後者が残した手がかりほど甘美な手がかりはいまだにないだろう。「うわさによれば、遠くの世界の夢が眠れる魂を訪うという……」(註1)――たしかに、マカリスターも、前代未聞の体験をしたあの日には、頭に浮かんだシェリーの詩の一節にわれ知らず好感を覚えていた。
 というのも、マカリスターは、ある夜、そうした夢を見たのだ。朝になると、先人たちと寸分たがわぬ行動に出た。つまり、夢に伴う、強烈で甘やかな感情に駆られ、力をふりしぼってすべてを思い出そうとしたのだ。その後、一日の仕事に取りかかったが、ときおり、件の感情が心にとりついているかのようによみがえった。しかも、意識でなにか――記憶といってもよさそうなもの――がちらついており、だれかといっしょに心惹かれる場所にいて、その人物から、めったに知ることのできない真実を教わったり、見せられたりしていたように感じた。そのときの人生は、もっと充実していて豊かであり、奥深くて、すばらしかったが、それだけでなく――すべてが明らかになっていた。なぜなら、彼は人生全体を理解していたからだ。そのときは、人生の不完全なかけらを見ていたわけではなかった……。
 彼の場合、しっぽをつかんでつかまえた切れ端は、ほんの些細なものだった。たいていの人間なら些細なものだと考えただろうし、ばからしく思われてもむりはなかった。たしかに、些細でばからしいものだったかもしれない。ただ、それには、本体と同じ、朗らかでひとを虜にする魅力が宿っていた。もっとも、本体はどうやっても出てこようとしなかった。それゆえ、この切れ端のせいで、満たされぬ憧れをかき立てられ、歯噛みさせられたにもかかわらず、心が晴ればれとして慰められ、〈生〉全体を眺めることさえできれば、なにもかも大丈夫なのだと思えた。というのも、そのかけらは、なんらかのかたちで〈まったきもの〉を見せてくれたからだ。目覚めている間の意識にはなじみがないものだったが、望みや信念は、埋もれかけていたにせよ、気分が高揚し、すばらしい希望が生まれた瞬間に、それをはっきりと指し示していた。かくして彼の心は晴れわたり、慰められた。こうした気分は、いっそう有益な心境へといたるきっかけであるがゆえ、彼は――力づけられたようにも感じた。
 それどころか、彼のうちにとどまっていた夢の切れ端は、どんどんぼやけていく言葉でしかなく、日常で使う、ありきたりな七つの単語をつなげただけであり、それを発した声にも目立つところはなかったのだが、とても幸せそうで、途方もない説得力がこもっていたから、彼はその言葉が究極の真実なのだとたちまち確信した。
ほら、なにもかも大丈夫でしょう……!」
 細かく覚えているのはこれですべてだった。ただこれだけだ。そして、目が覚めた途端、夢のつづきとその結末が見たくてたまらなくなり、しばらくの間、場所や相手やことのいきさつを思い出そうとがんばった。そうすれば、夢全体を復元して、正体を見きわめられそうだった。というのも、彼はとても愉快な気分で――起きてからの十分間はとりわけ愉快だった――夢を取りもどすことができれば、別の視点をわがものとして、生活で頭を悩ませることを解決し、いくぶんごたごたしている人生の難問を片づけられるように思えたからだ。「すべて取り返すことさえできれば」と心の内でつぶやいた。「いろいろすっきりさせられるし――なにがあっても幸せでいられるはずだ――なにしろ、すべてを理解できるのだから!」
 ところが、頭に残っていた言葉には、消えた夢の精髄が宿っていたものの――「ほら――なにもかも大丈夫でしょう!」――夢そのものはいなくなっていた……。
 そんなわけで、さきにも述べた通り、彼は一日の仕事に取りかかった。そうしていると、これまた先人と同じ体験をした――ほんの一瞬だけ、〈感情〉がよみがえって、心にとりつくひらめきを放ち、彼に気づかれるやいなや、姿を消したのだ――それは満たされもせず、理解もされなかった――だが、現れるたびに、その源に由来する安らぎと晴れやかな気分を残していった。あたかも、それがひらめくたびに、くりかえし心にとりつくたびに、彼はほんの一瞬だけ、かけらがいまだにつながりを保っている、すばらしい〈全体〉の特異な意識に立ちもどるかのようだった……。そうすると、煌々と光り輝くのだ。
 一日が過ぎるうちに、こうして立ちもどる瞬間はだんだんと色あせていったが、真実味は薄れなかった。最初に感じた説得力はそのままだった。薄れたのは記憶のほうだった。
 そうした瞬間について、これからみていくとしよう。
 それはある日の七時ごろのことだった。検閲事務所での仕事が片づいたので、午後は休みを取り、想いびととお茶をするため、〈魅力あふれる一角〉に向かった。呼ばれているわけではなく、約束もしていなかった。立ち寄っただけだった。のちに彼女の夫もくわわって、三人は自然体で気楽におしゃべりをした。客は歓迎されているようで、張りつめたところやぎこちないところは微塵もなく、ましてやいさかいなどあろうはずもなかった。もしかすると、夫は勘づいていたかもしれないし、勘づいていなかったかもしれない。おそらく彼女は気がついていた――たしかにありえることだ――だが、その原因は、マカリスターがしゃべったり、やったり、うっかり口を滑らせたりしたことではないはずだった……。彼も彼女も死後のことで思い悩んだりはしなかった。それゆえ、マカリスターからすると、彼女と結ばれる望みはもうなかった。彼は頭がいいわけでも、世渡り上手でもなかったが、ひとかどの人物であり、意志が強く、誠実でまじめだった。世間では、人格者だがいくぶんつまらない男として通っていた。こうして訪ねていくことはときたまあった。彼女と親しい仲間はみなそうだった――ただそれだけだった。彼の秘密は真の秘密だった。だれにも打ち明けず、偽ることもなく、しっかりと胸にしまいこんでいた。彼は夫とも友達であり、それに値する人物だった。彼の立場は、手に負えないほど厄介ではなかったものの、彼女が夫を好いていても愛していないことに意識がいってしまうせいで、余計に難しかった。
 魅力あふれる家で、彼はいつものように黙ったまま、思いのほか冴えない顔をして座っていたが、彼女がいるおかげで心は晴れやかだったし、とても幸せだった。ただひとつの手がかりをよりどころとして自分をなだめ、前の訪問から間が空いても、彼女は自分を気にかけてくれていると信じようとしていた。その手がかりとは、訪ねていくたびに、望みを察してくれることだった。彼女から訊かれたことはなかった。いつもうれしくなったし、感激させられた――どれもささやかな行為だが、大きな意味を持っていた。お茶には砂糖ひと塊を入れ、ミルクではなくクリームを注ぐ。かっちりしていてまっすぐの背もたれがついた、かための椅子を用意してくれる。まぶしい明かりを消し、部屋の向こう側の電球をひとつだけ灯して、あとは暖炉の明かりだけにしてくれる。そして――彼が大好きなロシアの曲を流してくれる……。
「ちょうどスクリャービンをやってみようと思っていたの。よろしいかしら」そう訊くと、答えも待たずに楽器のところへ行く。またあるときは――「ピアノをちょうど調律してもらったの。一曲か二曲弾いてみなくちゃね」――それ以上はなにも言わず、彼がとりわけ気に入っている曲を弾く……彼は暖炉のそばに座ったまま耳を傾け、見守り、うっとりとして、ふしぎなほど安らぎ、幸せな気分になった。堅苦しさはまったくない。すっかりくつろげる、至福のひとときだ。暖炉の暖かな火、柔らかな明かり、彼女がつけている香水のほのかな香り、彼女の存在そのもの、思いなしか自分の秘密をかすめているような彼女の考え、自分の魂の奥深くにまでしみこんで、口には出さぬ望みを表現しているような彼女の音楽――これらすべてが力と美を全身に行きわたらせてくれるおかげで、その後のひたすら長く、寂しい時間を過ごすことができるのだった。
 すると、扉が開き、夫君がやかましい音を立てて入ってくる。街と最新のうわさ話の雰囲気が全身にこびりついている。
「よう、ジャック! きみだけか。いいね。知らない客かと思ったよ!」
 だが、夫君には音楽の趣味がなかった。部屋も明るいほうが好みだった。食事はいつもたっぷりとった。まずこれら三つをそろえてから、妻が楽譜を片づけているのもかまわず接吻する。そして、三人は暖炉のまわりに集まり、おしゃべりをした。夫君は満足げな音を立ててお茶をがぶ飲みし、バターを塗ったトーストを、かけらにいたるまで自分の金が注ぎこまれているのだといわんばかりにむさぼり――マカリスターと大声で話した。好いているのだ。妻とは直接しゃべらなかったが、これは彼女に満足しきっていて、少しなら放っておいてもよいと思っているからだ。とにかく、彼女をわがものにしているという態度をあからさまにとっていて、マカリスターにはこうした場面が思いのほかつらかった。とりわけつらかったのは、止めなくてもよいところで音楽を止められること、つまり曲の途中で中断することだった……。
 二十分ほど楽しくおしゃべりをしたのち、おのずと沈黙がおり、マカリスターは辞去しようと立ちあがって、暇を告げた。彼にとっては真の「さようなら(グッバイ)」だった――「神がともにありますように(ゴッド・ビー・ウィズ・ユー)」。というのも、今度訪問するまでの間になにが起こるか、知りようがなかったからだ。心からのさようならはいつもそうだが、別れがひしひしと感じられた。このさき起こりそうなことが脳裏をよぎり、気が重くなる。このさようならの瞬間はいつも苦痛だった。だが、今回はそうならなかった。彼の目に浮かんでいたほほえみは、たいていの夫君なら気がついたに違いない。というのも、突然、沈黙がおりると、消えた夢の感情があふれ出したのだ。おそらく、取りもどせぬ〈真なる記憶〉の記憶でしかなかったのだろうが、それとともに、強烈なよろこびと法悦と安らぎが全身に広がった。彼は煌々と光り輝いた。自分は孤独ではないのだ。思いなしか、覚えているよりも多くを――ずっと多くを――知っているようだった。あの言葉がよみがえった。
ほら、なにもかも大丈夫でしょう……」
 忘れがたい感情が燕の翼のようにひらめき、ちらつき、そして消えたが、おかげで一瞬だけ至高の悟りが開けて、心をつかまれ、晴れやかな気持ちになった。彼が享受している、高位の甘やかな栄光は、些末ながらも頭を悩ませる、不完全な感情に埋もれて忘れられていたが、ずっと存在していて、人生をよろこばしいものにしてくれている――いまもそうなのだ。一瞬の法悦が彼をとりこにし、そして消えた。あたかも、決して切れぬ霊的な絆で〈彼女〉と結ばれることが、前から約束されていたかのようだった。驚くべきことに、そのことを見落としていたのだ。いや、むしろ、この燃えるように鮮やかな事実を誤解していて、いま改めて理解したというべきか。完璧で、燦然たる輝きもそのままに――ほんの束の間だけ理解したのだ。ふたりの愛は純粋で、瑕ひとつなかった。いまこのときも、彼は彼女のものであり、彼女は彼のものだった。ふたりはひとりなのだ。その感情はたしかに儚かったが、至上の法悦だった。
ほら、なにもかも大丈夫でしょう」内なる声が湧きあがってきた。それは、辞去する際に口にした、なんでもない言葉の背後にも隠れていた……。
 この法悦は、実在していながら説明がつかず、メイドが正面玄関の立派な扉をていねいに閉めたのち、彼が階段をおりているときもいっしょだった。外に出たときは、晴ればれとした幸せを感じていて、あたかも魂のうちに、大切なものをしまいこんでいたのを思い出したかのようだった。その気分はしばらくの間、まわりを漂いながらとどまっていた。彼は薄暗い通りを歩いて、半マイル先の地下鉄の駅へ向かった。その後、幸福感は薄れていった。夢そのものを思い出そうとして、感情を手放してしまったのだ。だんだんぼんやりしてきた。まがいものめいてきて、実在感が失われていった。だが、深い絆を信じる気持ちはどういうわけか強まった。彼女はたしかに自分のものだ。奇妙な視点だが、いまではないいまからみれば、そういうことになる……。高級住宅街のうわさをこまごまと話す、夫君の揺るぎない声がよみがえってきて、幸福感にとってかわり、耳でしつこくこだました。〈真なる記憶〉はかすれて消えた。あっという間に取りもどせなくなった。彼が覚えていたのは、それが存在していたということだけだった……。

 夢にとりつかれたのはこれがはじめてではなく、もっと早い時間にも同様のことが起きた。だが、順番でみれば最初だったものの、なんらかの理由で、さきほど述べた体験よりぱっとしなかった。おそらく、そこで照らし出された出来事が、彼の人生で重要ではなかったから、強烈な反応が起きなかったのだろう。だが、同じことを確信したし、より豊かで、完全に近い意識が兆したのも同じだった。それをいつもわがものにできれば、人生は美しくなり、山積する細かい悩みも解決されるはずなのだ。いまの彼はばらばらになったかけらに埋もれて手探りしていたが、夢のなかでは手がかりをつかんでいたから、これらの尖ったかけらをはめこんで、ひとつの完璧なモザイク模様をつくりあげていた。
 出勤する途中で、ふと目に入ってきたのは――遠くから近づいてきたのは――彼が嫌っている男だった。ふたりは互いに嫌っており、古くからつづく、根深い反感を抱いていた。それでも、口を利く間柄だった。どちらも同じ狭い世界で生きており、友人も仕事も共通していたからだ。表立って口論したことはない。だが、会釈したり、目をあわせたり、言葉をかけたりするのは――なるべく避けていた。巷のいいまわしを使うなら、互いに我慢ならなかったのだ。だが、そのときは、ふたりの間の歩道にはだれもいなかった上に、刻々と距離が縮まっていくので、よけるのも、礼を失さずに逃げ出すのも問題外だった。マカリスターはわれ知らず身構えた。おざなりでとげとげしいあいさつを交わすのは、避けられそうにない。いつもと変わらぬ偽善ぶった姿勢に悔しくなった。あいさつなんかより一撃を見舞ってやりたかった。お前は下衆野郎だから、ぶん殴られるのがお似合いだと言ってやりたかった。
 ふたりは足を止め、こうした男たちがよくやるように、一瞬だけ言葉を交わし、強いて仲がよい態を装った――いや、一瞬よりも短かった。すれ違いざまに少しだけからだを向けて、品のよいほほえみらしきものを見せただけだったから、互いに同じ印象を与えた――「下衆野郎はお前だ。おれじゃない。悪いのはお前だ!」マカリスターは、憎たらしくて憎しみにあふれている目を見据え、深奥を覗きこんだ。その瞬間――険悪な仲のふたりが、だれもいない歩道で対面した午前八時四十五分に――驚くべきことに、彼の脳裏で、消えた夢の感情がひらめいた。どこからともなく出てきたようで、現れたと思ったらいなくなった。束の間、より完全な知恵の〈真なる記憶〉を思い出し、人生はふしぎな美しさを帯びた。彼は光り輝き、幸せになった。
ほら、なにもかも大丈夫でしょう!」その言葉は朝の風にのって漂い、まるで忘れ去った子ども時代に嗅いだ、花の芳香のようだった。
 きらめきが現れ――電光のように消えた。神々しさがかすかに感じられ、夢に伴う感情が湧きあがった。それはすっかり消えたわけではなかった。というのも、儚いひらめきのうちに、マカリスターは、突然、強大でありながらごく自然な想いにつき動かされたのだ――いがみ合うのはなにかしら誤りがあるせいであり、実際にはいがみ合いなど存在しない。この尖ったかけらもどこかにはまる。ぴったりとはまるはずだ。それがどこなのかを思い出せさえすれば……。燃えるがごとき鋭い幸福感は、天上の至福といってもいいほどで、彼の全存在を貫いた。安らぎと、親愛の情と、究極の理解が、からだと精神と魂を浸した。一瞬よぎった感情のおかげで、心が晴ればれとして安らいだが、その感情は手の届かないところできらめいていた。彼と仇敵はひとつになった。
 あと少しで率直に打ち明けられそうだった。過ちを償い、わけを話し、赦し、赦してもらえそうだった。たしかにできると感じた。そうする力が手中にある。彼が見て取った敵意や、憎しみや、奥底に潜む嫌悪は誤解にすぎないから、不意に解消して、幸福感から生まれ、親愛の情から芽生えた安堵の笑みに取って代わられるに違いない。忘れてしまった夢の感情は、いっそう豊かな意識から持ち出したかけらだった。そうした意識でいられたら、日々の暮らしで頭を悩ますことも鳥瞰できるから、ひとりでに片づくはずだ。頭に浮かんできたのは〈統一〉という言葉だった。
 だが、その感情は儚く、まるで風に吹かれる水たまりを照らす月光のようであり、再び消えてしまった。大きく広がった情緒も、寛大でありたいという強烈な想いも、きらめきとともに消えた。それがあったことは覚えていたが、もはや理解できなかった。短いあいさつは済んだ。ふたりは己の道を進み、正反対の方向へ歩いていった……。次の街灯に差しかかるころには、マカリスターはこれまでにないほど相手の男を憎んでいた。ただ、寛大でありたいという想いにはいまも少しとまどっていた。いまの憎しみがそうであるように、深くて偽りのない想いだったからだ。彼は恥ずかしくなった。はじめにその想いを、そしてそれに従わなかったことを恥じた。
「こういうのが原因で、うそつきだとか不誠実だとか責められるんだ」そんな考えが頭に浮かんだ。「こういうことをひらめいて、よく考えもせずにその通りのことをやってしまう。それか、相手はそもそも理解してくれないから……」
 とにかく、心の内には、埋もれてもなお生きいきとしている、なんらかの憧れがとりついており、失われてしまった、魔法のような幸せを切望していた。悲しみを、後悔を意識した。自分でも理解できなかった……。事務所に着いて、机に目をやると、三種の外国語で記された手紙が山をなしており、送り主の全員が、いまこのときも、困難でややこしい人生を送っているのだと知れた――そして、最初の封筒を特製のナイフで開封しているうちに、夢も仇敵も忘れた。目前の気乗りしない仕事以外はすべて忘れた。

 最後となる三つめの出来事は夜遅くに起き、〈真なる記憶〉の記憶が消えかけていることがはっきりした。たしかに、あの感情が現れたが、ごくかすかだった。ひどく薄れていたので、遠く隔たっていて、実在感がなく、取りもどすには値しないように思えた。もはや取りもどしたいとも思わなかった。憧れはすっかり消えていた。件の言葉については――「ほら、なにもかも大丈夫でしょう」――思い出すことはできたが、場違いな上に、無意味であやふやな気がした。説得力はなくなっていた。しかも、頭に浮かぶのはつくりものめいた替え玉であり、忘れてしまった本かなにかからの引用だった――いや、あれは掲示板の広告だったか? 彼の頭には仕事の些末事がいっぱいに詰まっていた。とある人物の手紙や関心に疑いを持ち、さまざまな送り主に対して、哀れんだり、うんざりしたり、腹を立てたりしていたから、ふつうではない考えに割く余裕などなかった。とにかく、今回気がついたのは、ばかげた言葉と消えゆく感情だけだった。いってみれば、くたびれた目の端でそれらをとらえたのだ。だが、どちらもすでに、数世紀の彼方だった。
 その出来事が起きたのは、暗い通りでのことで、十時過ぎに、彼は用心しながら家路をたどっていた。クラブで夜を過ごしたあとだった。彼は痛ましい事故を目撃してしまった。一日の記憶が頭のなかで混ざりあっていたが、これといって目立っているものはなかった。十二時間前に仇敵と出くわした記憶はすっかり消えていて、仕事についてはわざと棚にあげて忘れており、クラブで見聞きしたことも考えるには値しなかった。最新の夕刊をポケットにつっこんでいたが、まだ読んでいなかった。手探りで家路をたどる間に意識を占めていたのは、きょうは記念日も同然ということだった。なぜなら、〈魅力あふれる一角〉でお茶をしたからだ。この記憶が新鮮味のないもの思いを縫って、優しく、なめらかに出入りしていたとき、とある交差点に差しかかった。そして、目の前で痛ましい事故が起きた。子どもが通りすがりのタクシーに轢き殺されたのだ。
 突然、胸が悪くなる衝撃を受け、からだも頭もだしぬけに麻痺した。あらゆる本能につき動かされて、助けに行こうとした――悲しいかな、防ぐことはもはやかなわなかった――命を救いたいというむなしい願いののちに、すぐさま憐れみと共感と痛みが襲ってきて、からだが固まり、息ができなくなった。すべてはおぞましい一瞬の出来事だった。たちまち惨劇の現場にひとが集まった。あたかも暗がりに潜んでいて、事故が起きるのを待ち構えていたかのようだった。いくつも手が差し伸べられて、小さな遺体を歩道に運んだ。なにもかも影に飲みこまれた。
 マカリスターは、からだと呼吸がもとどおりになると、また歩きはじめた。大きなため息が漏れた。だが、苦痛に満ちた悲劇の現場から離れるとともに――気のせいかもしれないが――人生が止まった瞬間からも離れていくようだった。〈時〉は束の間止まっていたが、また流れはじめた。だが、たしかに止まっていた瞬間があり、そのときだけは〈時〉の外にいたのだ。彼はわれを忘れていた。いまわれに返った。そして、あの止まっていた瞬間に、時間と私心を超越した瞬間に、消えた夢の残響ともいうべき感情があふれてきたのだ。
 今回の感情は、これまでと同様に心にとりついたが、ごくかすかで、危うく見過ごすところだった。おなじみの言葉もすぐさま精神の表層に浮かびあがってきたが、異なるかたちをとっていた――替え玉だったのだ。しかも、この替え玉の出所は目覚めている間の生であり、夢見ている間の生ではなかった。「神は空におわします。だから、なにもかも大丈夫」(註2)とかそんなような言葉で、記憶が正しければ、事務所の壁のカレンダーに書いてあったものだ。だれの名言なのかは見当もつかなかった。そのときはなんだかばからしく思えた。所詮はたわごとであり、くだらない文句を考える能天気な人間がひねり出したのだろう。それとともに、薄れゆく感情は、おぼろげな安らぎらしきものを残していったが、いまの彼には受け入れられなかった。それどころか、腹を立てて抗った。頭にあったのは、めちゃくちゃになった小さな遺体のことだけだった。家に運ばれるのだろうか。両親はなにを思うのだろうか。カレンダーの安っぽくて薄っぺらな言葉には軽蔑を覚えたし、それを考えると、いくぶん腹が立った。「空におわす神は、なんだって防いでくれなかったんだ……?」あの子どもがとても身近に感じられて――自分が事故に遭ったかのような気分だった。
 床に就く一時間前に、夕刊を読んだ。見ると、友人が負傷したり、捕虜にされたり、殺されたりしており、ひとりは「行方不明」になっていた。目の前が真っ暗になった。これまで何度もあったことだが、世界大戦によりたいていのひとびとが経験してきた、あの憐れみと苦悩と絶望を覚えた。彼は〈集合意識〉にとらわれた……。しばらくの間、切れぎれにではあるが、奇妙な感じがして、天寿を全うできなかった者たちとひとつになれたような気がした……。そこで意識したのは、自らの身を挺してまで力になろうとする強い心や、地上に解き放たれた、悪魔のごとき非道な行いを粉砕するまでは耐え忍ぶという(まるで自分自身が陸軍元帥か軍務大臣にでもなったかのような)固い決意だった……。だが、眠気に襲われた途端、異なるなにかも感じた――それは途方もなく大きな、理解しがたい希望で、どういうわけか、彼には正しいのだとわかった。というのも、まどろんでいるせいではっきりとらえることはできなかったものの、ただの希望ではないように思えたのだ。確信といってもいいが、自覚はなかった。もっとも、精神は沈黙していた。ただそう感じた――まちがいないと感じた――それだけだ。「ほら、なにもかも大丈夫でしょう」と表現してもいいかもしれない。やがて頭がぼんやりしてきて、幕があがったりおりたりした。前回ベッドで横になったときは、とてもすばらしいなにかを夢見ていた……。もしかしたら、また同じ夢を見るのではないか? しかも、それを夢に見たのは、自分だけではない。全世界も同じ夢を見ていたに違いなかった。心にとりつく感情がかすかに現れた。忘却の霧が広がった。頭が働かず、ましてやその感情について自問自答するなどもってのほかだった。彼は眠りに落ちた。

 翌朝には、すべての源となった夢も、それに伴う感情も意識からすっかり拭い去られていた。朝食の卵は鮮度が悪く、バターもマーマレードもなく、暖炉からは濃くて汚い煙が出るばかりで、火も暖かみもなく、朝の手紙には不満を感じた。頭が痛くて、一日の業務が危ぶまれた。だれからなにを言われても、世の中が「大丈夫」だとは到底納得できなかっただろう。戦況の知らせにも気がめいった。新聞を読んでいると、仇敵である、あの憎たらしい男を悪く書いている記事があった。彼はうれしくなった。
 次の瞬間――それどころか同時といってもよく、人生ではじめてのことだったが――なぜか申し訳なく思った――自分でも意外だった。憎しみは、ふと気がつくと、どういうわけか弱まっていた。どうも妙だなと一瞬だけ思ったが、そんな考えはすぐに頭から追いやった。どうやら、心境の変化があったらしい。たしかにごくかすかだが、目につく程度にははっきりしている。彼はこの結論も追いやった。
 だが、それは一日のうちに何度もよみがえってきた。追いやられまいとしていた。心境の変化は、かすかながらも、かなり根深かったらしい。とにかく、ときどき表に出てくるのだ。彼はこんな風に受け止めていた。余裕も時間もなくなったせいで、私的な感情にふりまわされなくなったのだろう、と。日常のこまごまとした悩みごとに埋もれながらも、大きく広がる、悠然とした幸福感を覚えた。おかげで心がすばらしく落ち着いた。理解はできなかったが、まるで自分のなかでなにかが解放されたかのようだった。平凡な彼の奥底に隠れていたのは、いままでになかった共感だった。共感するようになれば、理解が芽生えて寛大になり、ついにはよろこびが生まれる。この新たな心境は、時が経つにつれて、たしかなものになっていった。実在しているのはまちがいない。そのことについてわざわざ考えていたわけではなく、なんらかの変化がいつの間にか、勝手に進んでいたようだった。それは、自分でも忘れてしまった、秘められし霊感の源から飛び出して、たしかな結論へと導いてくれた。だが、その結論はもはや手の届かぬところにあり、言葉にするのはかなわなかった。
 つまり、気がつくと、新しい感覚が芽生えていたのだ。それは新たな視点であり、新たな人生観ではなかった。とにかく、それらに近いなにかが生まれていた。ある意味ではあきらめねばならない愛情や、赦さねばならない仇敵、幼い子どもの打ち砕かれた命、殺されたり、からだの自由を奪われたり、痛めつけられたりした者たち、親しいひとに先立たれた者たち、自分が抱いている、一身上のちっぽけな悩みや苦痛――こうしたすべては、なにか巨大な模様をかたちづくる、尖ったかけらのように感じられた。模様の全体を見ることさえできれば、むごくて恐ろしいとしか思えぬものでも無意味ではないとわかるに違いない。ときどき、これらすべては自分のなかで起きているように感じた。尋常ならざることだが、神々しい共感の種が誕生したのだ。夢は忘れられたが、この種は残った。前より幸せになったようには見えなかったかもしれないが、彼は法悦の兆しを体験していた――〈真なる記憶〉の記憶だ。かすかながら、子どものような希望を抱いていた。新しいなにかがこの世界にこっそりおりてこようとしている……。そう、なにもかも大丈夫なのだ。


(訳注)

註1:パーシー・ビッシュ・シェリーの詩「モン・ブラン」の一節だが、夢(dreams)は実際にはgleams
註2:ロバート・ブラウニングの詩『ピッパが通る』の一節


底本には『Tongues of Fire and Other Stories』(E. P. Dutton & Co., 1925)を使用しました。


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