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【観劇記録】ウエアハウス-double-

「ウエアハウス-double-」
2020.1.25.〜2.2.@新国立劇場小劇場

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大きすぎる衝撃を抱えながら劇場を後にした。

圧倒的な非言語的情報で溢れていた。

作中で語られる「ホワイトノイズ」の概念こそ、この作品の存在そのものだと思う。

その中からどんな情報を読み取るか、その中にどんな意味を見出すかは各自の自由。それを特に強く象徴してたのが、クラマックスのルイケとヒガシヤマのぶつかり合うシーンであり、最後に「愛」という言葉について投げかけられた疑問だと思う。

芸術とは一言で表せない心や現象を作品に引き伸ばして全体で語らせるもの、つまり作品全体が暗喩だと思うのだけど、この作品はまさにそのもの。しかも演劇ならではの、劇場で生で目撃するからこそわかる、観客まで含めたそれぞれの空気、体調、精神状態、物音、室温などなどなど…をこれでもかってくらいに全部全面に押し出してくる。

だからこの作品は、演劇とは、生きた総合芸術だということを改めて、高らかに宣言しているように感じた。

個人的に面白かったのは、まるで自分が話し手であるような感覚に陥ることが何度もあったこと。台詞を喋っている側をつい追いがちの私なのだけど、この作品では受け手を注視したい欲求が強かった。話されたことに対する相手の反応を探ってしまう。“目は口ほどに”というけれど、目の動きや顔の強張りとか、発している言葉以外の情報から、内面を推測しようとする。少しも見逃したくない(けど喋ってる人も見たいという強欲な自分)。

さて、このウエアハウスでは特に、公演ごとの変化について敏感にさせられた。全然違うって感じた。全く同じ言葉で全く同じ筋なのに、なんかもはや全然違う話だよね?って感じだ(演者はどうやって同じ結末に辿り着くのか、無知な私には謎でしかなく、そもそも演技とは一体なんなのかという新たな議題が爆誕…本を読む感覚に近いのかなんなのか)。

同じなのに違う内容になるということは、それはつまりやはり言葉には意味がないと言えるのではないか。しかし、言葉がなければ何も伝わらない、世界を共有できないとも言える。だから言葉はコミュニケーションのあくまで一要素であって、実際に会って交わさないと分からないことを伝えたいのかも。ルイケも「生きた情報」って言ってたし。

相手がどんな感情でいるのかは、同じ空間を共有しないと分かりにくい。だから「本当に世界とつながっていると思っている」のかという話になる。大好きなその小さな画面が発するのは一方通行なのだから。

他人とは同じ世界を見ていても、切り取り方が違う。作中のホワイトノイズが伝える情報のように。ちょっとしたズレがすれ違いになる。そのすれ違いを埋めるのはやはり愛なのだろうし、決定的な歪みを作ってしまうのもまた愛なのかもしれない。

たくさんの愛を感じた作品でした。

“愛”という言葉の守備範囲は広すぎますね。
まったくどうやって「発明した」んだか。

最後に。
ルイケとヒガシヤマに幸あれ!