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真に生きるには偶然が要る

西野さん:

ツイッターのエゴサ、というか検索の話をしますと、ぼくは自分のアカウント名のほかに、「病理医」とか「 #やさしい医療情報 」とか、「 #アレクサ看取って 」とか、「 #ヨンデル選書 」などなど、もろもろ10種類くらいの単語で常時検索しています。これを人に言うと驚かれますが、ニンジャの修行(麻のタネを植えてその上を飛ぶヤツ)といっしょでね、たいしたことない量の実践からはじめて徐々に量を増やしていった結果です。

あと、最近は「 おうちケア 」という単語も検索しています。誰かがこの本を買ったらすぐにRTして世界を盛り上げたいんだ。

一切自分で書いてねぇ本だけど……。


本といえば、西野さんがこないだ作った本、あれ、とてもよかったです。タイトルも、紙質も、展開のさせかたも、記事どうしのリンクのしかたも。読み手を気持ちよくさせる仕掛けが慎み深く重厚に張り巡らせてある。さすがです。

もうちょっとちゃんと感動を伝えたいんだけど、編集者のほめかたがわからん。

こないだ信頼できる編集犬に会って飲んでたとき、彼はある同席者に対して、文芸の話をすごく上手にしてたんですよ。だからぼくは犬の肩を叩いてね、「君はあれだな! 本の話をするのがとっても上手だなあ!」と言ったんですね。そしたら犬は邪悪に笑いながら、ワンワワンワンワンワワン(訳:おっなんだ君ぼくをなんだと思ってるんだ、本職だぞ、いいか、それはつまり君に対して「がんを見つけるのがうまいなあ!」とほめるのといっしょなんだからな!)とシッポを振りながらまくしたてるんですね、なんだそんなに恥ずかしがらなくてもいいだろう、ケタケタケタ、とだいぶ楽しく飲みました。

編集者をほめるのって難しいです。だいたいぼくよりいっぱい本読んでるし、いい思考をずっとしてる。そんな人たちを付け焼き刃でほめるとすぐぼろがでる。

あなたのことももっとほめたいのだが、なかなかうまくいかない。


・・・


コカ・コーラのCMだった"No reason"よりも1,2年ほど前、日本ではバックストリート・ボーイズがめちゃくちゃ流行っていた。有名なヒットソングは、サビの歌詞がまんま"tell me why"だった。かたや「なぜなんだい教えてくれよ」、かたや「理由なんていらない」の時代。

あのころ、文芸にも音楽にも、whyを投げかける文脈が増えはじめていたのではないかと思う。まあ、前から多かったのかもしれないけれど、少なくともぼくがそういうのを気にし始めたのはそのころだ。

インターネットの検索機能がじわりじわりと進化し始めていた。少しずつ、遠くにいる他人に接近する手段を掴みつつあった。身内には今さら聞けない類いの問いが世に満ちる気配。

Whyと書いた手紙をボトルに入れて、気軽に海に流せそうな。

そんな空気が整いつつあった。

あるいは、それを受けての広告代理店的戦略こそが、"No reason"だったのかもなあ、と邪推する。考えるより先に行動しようよ、だって考えたって答えなんて出ないんだから。まあそうかもしれないんだけど、けっきょくのところ、ぼくらはwhyが大好きだし、whyの答えがそう簡単に手に入らないからこそ、歌詞になったり、ひっくり返してキャッチコピーにしてたんだと思う。


京極夏彦が『魍魎の匣』の中で、犯罪が起こるきっかけとして重要なのは動機があるかないかではない、という意味のことを書いていた。ぼくがあれを読んだのはいつのことだったろう、文庫版が出たのが1999年だったわけで、まあつまりは似たような時期だったのだ。

どうやらこのころのぼくは立て続けに、whyに触れたり、reasonなんてないよって言論を摂取したりしていた。そうやってこじらせた。

理由は決められない、動機は問題じゃない。そう唱えながらぼくは20代を通り過ぎた。この話を誰かにしたことはきっとあるが、何かに書いたことはほとんどないだろう。ぼくの原体験は魍魎の匣なのだ。

ぼく(ら)はきっと、たいていのwhyに対して、単一解を示すことなどできないのだと思う。なぜなら、単一の理由なんてなくて、柱となる動機もなくて、ものごとはすべて複雑系で、誰もが群像劇のモブであり主人公だから。

Whyに対してone reasonを提示しようと思ったとき、「5年ほど保つレトリック」だったらいくつか知っている。実際にそういうものを使ったこともある。けれども、10年経つと神通力は消えていく。ときには1日で消える。一瞬で消える。宵闇の新宿を泥酔した頭を引きずりながらふらふらと歩き、通りがかりの小さな神社で悪運を払おうと頭を下げた瞬間に、さっきまで覚えていたたったひとつの冴えた答えを忘れてしまう。

そういえばぼくは、そういうことをずっと考えてきた。

生命に関する問いの出発点、そして終着点がwhyなのだということを、ぼくは20年前にすでに知り始めていた。けれども言語化はできず、抱えたまま、とりつかれたまま、医学部に通い、医師免許をとり、医者にならず、研究者を目指し、病理医になった。


・・・


最近よく九鬼周造の名前を目にする。『急に具合が悪くなる』の哲学者、宮野真生子が20年来研究していたから、というのはもちろんなのだが、実はそのほかにも、たとえば何の意図もなくかの書房で見つけて購入した『数学の贈り物』で、森田真生もまた九鬼周造の話をするものだから、ぼくは本当にびっくりしてしまった。

そういえばこの二人、どっちも真生だなあ。ぼくは真だけど。

九鬼周造は偶然を語る哲学者だそうだ。彼の周りを彗星のようにくるくる回った宮野真生子は、偶然の哲学を自らの命の終わりにかけあわせて、一つの物語を編んだ。その物語は、ぼくが大好きな群像劇や複雑系のメカニズムと特にケンカせずに調和していて、切なく茫漠とした純文学だった。

Whyの答えは「偶然」なのかもしれないと今思う。

しかし偶然という2文字の前に放り出されたぼくらは寒くて震えてしまう。この残酷な言葉をやわらかく解き明かすことが、寄り添いケアをする医療の根幹にあるのだろうか。

オープンダイアローグ。

居るのはつらいよ。

中動態の世界。

それぞれうるさそうだ。一家言ある。

しかしこれらが偶々交わった先で本を読むぼくはそろそろ偶然の哲学から離れるのが難しくなってきている。そろそろ次の本を読まないと、螺旋が閉じて円環になってしまうかも……。

観念が奔逸してきた。編集の必要があるかもしれない。


(2019.10.31 市原→西野)