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【佐藤天彦九段】5/25Twitterスペース配信抜粋

佐藤天彦九段によるTwitterスペース配信(5/25)から将棋にまつわるトーク部分を一部抜粋のうえ、映像を付けさせて頂きました。
以下、採録原稿としてアップします。

「原初の響きに想いを馳せて」『棋士エッセイ集 将棋指しがひと息ついて』

名人戦第1局の大盤解説を務めたときに、指揮者の中島さんを控え室に招待していました。解説を5時間ほどおこなった後に感想戦も見ていただきました。

中島さんともうひとかた、バイオリン奏者のかたと、科学者の藤田誠先生と山田哲平先生の東大の両先生にも対局後の感想戦を見てもらいました。大盤解説を終えてから控え室に戻り、科学者のおふたかたが帰られた後も、実は我々(天彦九段と中島さん)で議論を引き続きおこなって、気が付けば12時ぐらいになっていました。

そこで議論し、語った内容が名人戦第1局に関する『将棋世界』(2023年6月号)の記事に反映されています。だから、『棋士エッセイ集将棋指しがひと息ついて』に寄せた「原初の響きに想いを馳せて」についてもそうなのですが、中島さんとの語りのなかで得た知見のようなものが自分のなかで相当、活かされているなと感じます。

トップ棋士の「文系的」「理系的」感覚

コメント

天彦先生や渡辺先生や豊島先生の将棋には「文系的」なニュアンスというか、なにか「国語的」なものを感じます。これに対して、広瀬先生や藤井先生には「数学的」なものを感じます。あくまでも印象論というか感覚的な表現ではあるのですが、いかがでしょうか。

コメント

返答

まあ、おっしゃる通り、そうですね。藤井さん、広瀬さんは、「文系的」というよりも、「数学的」というか、きっちりと読みで割り切っていくという側面が、両者の将棋の性質としてあるかもしれないですね。他方、私はやや「文系寄り」なのかもしれません。
渡辺さんもそうなのですが、渡辺さんはやっぱり将棋の形がきれいで、なんというか、数学的な推論をそんなに意識しなくても「できてしまう」という人でもあるように感じます。豊島さんは「文系的」な側面がある一方で、結構「理詰め」でやってるところもあるのかなと思います。ここで言う「理詰め」というのは、読み重視という意味合いです。そういう特徴があるのではないかと思います。とはいえ、終盤において「情念」のようなものがある点は、やはり独特であるといえるかもしれません。そこには豊島さんのいい意味での「負けず嫌いさ」があらわれているというか、終盤では「エモーショナル」な側面があります。
このように、それぞれの棋士に特徴があると思いますので、たとえば「文系的」「数学的」「理詰め」タイプといったような、一つの切り口からだけではその棋士について語れないという気はします。

返答・佐藤天彦九段

名人戦第四局 渡辺前名人の苦闘

今、名人戦の対局が進行中ですけれども、楽しいですよね。先日の第4局では、渡辺さんが「なかなかきわどいところ」を渡ろうと試みて、結果的に厳しかったというような感じになったとは思うのですけども、いわば一人の傍観者といった地点からいえば、『将棋世界』に寄稿した内容ではないですけれども、今まで渡辺さんが成功してきた「方法論」がいまここで壁にぶつかっているという意味で、「ではどうもがくのか」というような見どころが、かなりあるように思います。

佐藤天彦九段

そうした葛藤というものは、もしかすると羽生さんにも共通しているのかもしれません。常に勝ってきた棋士たちではあるけれども、時代の変化や変わり目を迎えた際に、どのようにアジャストしていくのかをファンのかたがたは見守り、観戦する面白さが大きくあると思います。ある棋士のファンのかたがたからすれば「どんどんと勝っていってほしい」という願望があると思います。注目すべきは、その将棋の内容、またマクロな視点というかいわば歴史的な視点から見た際の変化といいますか、20歳代、30歳代のころとは異なる価値観ともいえそうな、少しずつ変化していって50歳代を迎えた際の価値観で指す将棋を観ることができる楽しみは大いにあると思います。つまり長い目でその棋士を見ていくことができる楽しみです。棋士というのはスポーツのアスリートに類似しているところがあると思っています。やはり勝負でもあるし、試合や対局に向かって研究したり、気持ちを高めていったりするといった共通点があると感じます。棋士に比して、スポーツのアスリートは身体をより一層直接的に使います。そういう意味で、棋士は端的に選手寿命が長いという特徴があると捉えています。
したがって、棋士は50代、60代になっても将棋を指すことができます。もちろん、読みの能力は、どうしても20代、30代のころより落ちると思われます。しかし、そうした衰えを経験でいかにカバーするのかという面白みがあると考えています。それは将棋界の見どころの一つだろうと思います。
たとえば、サッカーに置き換えてみれば、サッカー選手の10代、20代が、将棋棋士の20代から40代くらいなのかもしれません。10代、20代のころは「スピードスター」として鳴らした選手が、30代を迎え、ボールを保持して配給する「テクニシャン」になるといったように(スペイン代表のホアキンやアルゼンチン代表のメッシなどは、そうした変化を遂げた選手であったような気もします)、具体的な変化を長いスパンで時系列的に追うことができる、プレーを観ることができます。
将棋についていえば、棋士同士の対局から、その人間の観念とか価値観の変化を知ることができるわけです。こうした特徴は、将棋界ならではの固有の魅力ではないでしょうか。
もちろん、他のジャンル、たとえば音楽の指揮者もいわば選手寿命が長いという点は共通しているといえるかもしれません。とはいえ、ピークを迎える年齢というのは多分、棋士と指揮者で異なるだろうと思います。指揮者は中島さんの年齢である40代くらいであっても、若手と言われる世界でもあります。指揮者はオーケストラの奏者たちと対峙していますから、一対多(複数)ということになります。
だから、将棋棋士と音楽指揮者は、いろいろ類似した点がある一方で、大きく異なる点も多くあるため、一概に「似ている」とは捉えられない側面もあります。

佐藤天彦九段

もちろん、サッカーや野球においても一人の選手に対する着目ということではなく、チームとして注目すると、採用する戦術の変化といった視点から長いスパンで観戦することはできると思いますが、将棋の世界はそういう風に、長い時間軸で棋士の対局を観て楽しむことができるという特徴があると思っています。

佐藤天彦九段

いま、渡辺名人も本当に苦闘している最中だと思います。
やはり、こういう時代の変わり目に名人戦を戦うっていうは本当に大変なことだと思うのです。同じプロからしても、なかなか想像するのが大変な環境にいるとは思います。渡辺さん、藤井さん、どちらの応援というわけではありませんけれども、棋士としては「良い将棋」が観たいということがあります。
指揮者の中島さんとも、演奏にせよ作曲にせよ、10曲作って7曲、8曲が評価される人というのはなかなかいないのではないかと話していました。
先日の名人戦第4局対局も、渡辺さんにとっては、なかなかちょっと納得のいかない将棋というか、ここは表現が難しいところなのですが、ややつらい将棋になってしまったかもしれませんが、きわどいコンセプトというか、きわどいところを渡ろうとするとそうした将棋になりがちなので、それについては1局単位でちょっと出来がよくなかったという語り方もできるとともに、連続的に対局を捉える見方もできるのではないかと思います。

佐藤天彦九段

これは『将棋世界』でも語ったことで、また今回の名人戦についての毎日新聞社主催のオンライントークイベントで語ったことでもあるのですが、今回の渡辺さんのコンセプトとして、角交換をしない系統の力戦を模索されているような感じは、おそらく明らかにあるように思います。そうしたコンセプトによる将棋が、今後どういう展開になっていくのかというのは、渡辺さん自身も未知数のところではないかと思います。

名人戦第4局でも渡辺さんの得意の攻めというところは、やっていたと思うのですけれども、渡辺さんはやはり自分の玉が固い状態で攻めているということがこれまで多かったと思うので、玉が薄い状態で攻めるというのは、結構違うものです。だから、攻めと言ってもこれまでとはだいぶ違う環境や感覚でやっていたのではないかなと思います。そうした状況での攻めが切れてしまったために、割と早めの終局となりました。

ですから、こうした文脈で言えば、攻めといってもかなり新しいことを試そうとしていて、それが今回はなかなかうまくいかなかったという風に分析しています。

しかも、渡辺さんにとって「なぜそうした新たな試みである攻めの形をしなければならないか」といえば、藤井さんのような棋士と対峙する際に、そうした試みの方向を求めていかないとなかなか勝つのが厳しいという点を突き詰めた末のことではあると思います。そうしたさまざまな事情が背景としてあるなかで、検討の結果、それが対局にあらわれているということだと思います。

佐藤天彦九段

コメント

(名人戦第4局38手目)△8八歩は失敗だったのかもしれませんが、私は渡辺先生が「好きな手」だったように思いました。

コメント

返答

そうですね。まあこのTwitterスペース配信で具体的な内容にどこまで踏み込むかということはありますけれども、渡辺さんらしい将棋の作りだったとは思います。一方で、藤井さんの受けがやはり正確だったということではあります。
藤井さんの指し手のなかにも、指しづらい手が結構混じっていたと思います。しかし、藤井さんは、そうした指しづらそうな手であっても「読みのエビデンス」といいますか、読みの精度の高さによって「指せてしまう」というところが、藤井さんのすごさでもあります。やはり今回はそうしたところの壁が厚かったかなというところがあるのかもしれません。

佐藤天彦九段

「プリミティブさ」~「高槻将棋祭り」から

コメント

エッセイ(「原初の響きに想いを馳せて」『将棋指しがひと息ついて』)を拝読しました。音楽を絡めた天彦先生独特の観点が面白く、すごく読み応えがありました。読後、天彦先生が「高槻将棋祭り」(「高槻市制施行80周年記念対局」豊島将之九段との対戦)で指されていた2七飛車のことを思い出しました。

コメント

返答

いや、ありがとうございます。「高槻将棋まつり」で豊島さんと指した対局は、かなりコンセプト性があって、いやでもエッセイから2七飛車のことを連想されるというのは、さすがだなという感じです。

あの将棋は、ある種の棒銀戦法のような感じで、将棋における棒銀戦法というものはかなり原初的な、プリミティブな戦法の指し方でもあります。これは言うまでもなく、加藤先生などが得意とされていた指し方でもあるのですけど、そういうプリミティブさというコンセプトを、結構わかりやすい形で打ち出せるのが2七飛車からの棒銀的な指し回しではありました。どこまでかはわかりませんが、何となく感じていただけているというだけでとても嬉しいなとは思います。

今後、そうしたいわゆる成績AIみたいなものが、まず席巻していくというか、勃興していくなかで、それでエッセイにも書きましたけれども、なんといいますか、今までわからなかったこととか、よい影響というのはすごくあるとは思います。

そこは別に二項対立的な対立軸として、一概に否定されるものでもないと思いますし、「いいところはいい」と認めていけたらいいかなと思います。
なんといいますか、科学もそうかもしれませんが、何かある領域でうまくかなり上手くいってしまうと、それで世界すべてを描写できるのではないかといったような観念に人間はなりがちなような気もします。他方、そうした観念や考え方だけでは、やはり人間世界は描写しきれないのではないかという気持ちもあります。

人間世界を捉えるための補助線として「プリミティブさ」というものが、有用なのではないかと思っています。ちょっとまた何か、難しい話になってしまってるかもしれないですけども(笑)

佐藤天彦九段

コメント

天彦先生、のどの調子は大丈夫ですか?この長時間の配信はありがたいですが、心配です。大感謝で視聴しております。

コメント

返答

ありがとうございます。こちらこそお付き合いいただいて、ありがとうございますという感じです(笑)コメントもいただき、ありがとうございます。のどはさすがにいま、抑えめに話していますね(笑)声の高さとかトーンが、さきほどとは違うと思います(笑)眼前に人がいて話すのと一人語りとは違いますからね。ご心配いただき、ありがとうございます。

佐藤天彦九段

佐藤天彦九段によるTwitterスペース配信
[アーカイブ]リンク

雑談配信2-感想戦(2023年5月25日配信)
 
https://twitter.com/AMAHIKOSATOh/status/1661391679134265351?s=20

雑談配信2(2023年5月25日配信)
https://twitter.com/AMAHIKOSATOh/status/1661325458590543873?s=20

雑談配信1(2023年5月7日配信)
https://twitter.com/AMAHIKOSATOh/status/1655118422999699457?s=20

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