見出し画像

コロナをチャンスに変えようじゃないか 「私の日本改革案」

「スクラップ・アンド・ビルドでこの国はのしあがってきた。」

映画『シン・ゴジラ』の最後、破壊された東京を前に、官房長官代理の赤坂が主人公の矢口に投げかける言葉だ。確かにそうだろう。この国は自己浄化・自己革新が苦手であり、いつも、外からの破壊によって更新されてきた。

7世紀には朝鮮半島で百済が滅亡。白村江の戦いにも敗れて危機に陥ったことで列島に天皇中心の律令国家が成立した。8世紀には天然痘の流行が公地公民の制度を終わらせ、徐々に各地に武士が誕生。政権は武士へと移った。19世紀には蒸気船の登場とともに米国を中心とする外国の圧力と脅威に遭遇。国内の混乱を招き、明治政府が誕生した。そして第二次世界対戦とその後の変革。数々の大地震や台風と、その後の復興。

日本はまさに、破壊からよりよい社会を作り出してきた。そしてそれは、今回の新型コロナウイルス感染症の事態が悲劇であるとともに、社会をより良くする大きなチャンスでもあるということを示している。

しかし、このチャンスをモノにできるかどうかは、政治家にかかっているわけではない。政治家はあくまで私たちの世論のスピーカーなのであり、私たち一人一人がこの問題について考え、行動しなければならないのだ。今回はその材料として、僭越ながら私の一案をみなさんに提供したい。

私はまず、今回の事態によって明らかになった、この国の社会構造や危機対応の弱点を洗い出し、まとめる。そしてそれらはどのようにして解決すべきなのか、その方策を考えてみたい。

弱点1 弱者を救うシステムの脆弱性

画像4

我が国において弱者を救済することはどちらかというと「甘える手段を作り出す」という否定的な印象を持たれることが多かった。それは「働かざる者食うべからず」という心情にも似ており、公益性に反すると思われていたのだ。

しかし、実際には弱者を救済する手段が整っていないと、コロナショックのような事態が発生したときに社会や経済への打撃が大きく、私たち全員に悪影響が及ぶことが明らかになった。

思い出してほしい。コロナショックで多くの国民の雇用や賃金や生活が危機に貧した。それでも政治はすぐに対応できなかった。雇用調整助成金などの既存のシステムを使おうとするあまり、派遣労働者や学生など、救いの手からこぼれ落ちてしまう人が相次いだ。たった10万円の給付にも多くの時間を費やした。この間、多くの方々が生活基盤を破壊された。一度壊されればすぐには立ち直れないであろう。これは個人消費の落ち込みや景気低迷の長期化、税収の減少、生活保護の増加などによる財政の圧迫、少子化の深刻化などといった形でそのうち私たちに降りかかる。

こうなったのはある意味当たり前のことだった。迫り来る敵(災害)を迎え撃つ適切な武器(制度)を用意していなかったのだから、竹やりで劣勢な戦いをするか、新しい武器の開発に時間を費やすしか他はない。

本来であれば前もって、困窮した国民を自動的に救済するシステムを整えておくべきだった。歳を取れば自動的に年金等で救済される今の社会保障システムのように、端的に言えば、突然失業あるいは半失業しても不安を抱かないような社会を構築しておけばよかったのである。そうすれば、社会に大きな悪影響が及ぶ前に、傷をできるだけ小さくすることができたはずだ。そうすれば、失業しても、苦難に陥ることなく、より良い活躍の場へと転換できる。

この感覚は一般的にはちょっと分かりにくいかもしれない。ちょっと自分たちの経験をもとに説明しよう。

私の父は、私がまだ幼かった頃、バブル崩壊後の不況の中で失業を経験した。失業をすると雇用保険での生活が始まる。しかし、日本の雇用保険の水準は低く、期間も短ければ金額も少ないので家族が生活するには不安が大きい。そこで父はすぐに雇ってもらえるアルバイトという形で家族を養うことにしたのだが、これが沼なのである。アルバイトなどの非正規雇用は基本的には時間給であり、給料も高くはない。景気が回復しても、家族が生活するには就活をしている時間がないのだ。仮に就活に1ヶ月間集中した場合、その月の収入はゼロになってしまうし、非正規雇用には雇用保険が適用されにくい。よって(景気が悪くなければ大企業で働けていた父のような人材ですら)景気が回復しても生活がなかなか元には戻らない。

もし失業時の手当てがもっと充実していれば、それはピンチではなくチャンスになっていたはずだ。不況の期間に職業訓練や能力開発に励み、自分の得意分野を発見し、景気が回復したら自分を活かせる職場を存分に探すことが可能だったはずだし、何より生活の回復はもっと早かったはずだろう。誰もが安心を手にすれば、経済の回復は早まり、失業ラッシュはむしろ生産性向上の機会となる。

今、平成不況当時よりもさらに多くの国民がこうした困難に陥っている。そこに不安ではなく安心を与えることができなければ、経済の回復とその後の成長は見込めない。景気低迷は長引き、大きな悪影響が多方面で生じるだろう。社会保障の網を整えることは甘えではない。私たちの社会をより良くする必要不可欠な手段なのだ。

弱点2 社会保障の概念の古さ

これまでの日本の社会保障の基本は現役世代からお年寄りへという形であった。昔であれば現役世代=強者、お年寄り=弱者という単純な構図は自然と成り立っていたのであり、こうした構図を前提とした社会保障体制は機能した。

画像1

しかし今回、その単純な構図がもはや存在しないことが誰の目にも明らかになった。現役世代にも「おうち時間」を楽しめる人と、明日の飯に困る人とが混在し、お年寄りにも年金や退職金や資産で悠々と暮らす人と、ネットカフェを追い出される難民が存在したのである。

言うなれば、社会保障が古い概念を更新できない中で、「現役世代の弱者」や「お年寄りの強者」という対応できない「未知の生物」と遭遇したというのがこの問題の本質なのだ。現役世代から高齢者へという社会保障のあり方はもう使い物にならないということが明らかになった。であれば、強者から弱者へという形に、社会保障の基本を現状に即して大きく転換する必要がある。

弱点3 専門的知見・インテリジェンスの欠如

画像3

政府や自治体の感染症対応はあまりに御粗末だった。クルーズ船での稚拙な作業、批判回避が目的としか思えないマスク配布、世論ウケ狙いで専門性度外視な「出口戦略」などなど、世論や組織内外の人間関係、外交関係などを考慮し、専門的知見を無視したような対応が目立った。

私は感染拡大当初、国会の内部で政府の対応や各党の会議を見てきた。しかし、そこで説明している厚労省のお偉いさんが「疾病」と「病原体」の違いという高校生物レベルの知識すら理解していなかったのが象徴的な記憶として残っている。

中国からの情報をもとに専門的に判断すれば、直ちに武漢だけでなく中国全土からの入国を停止とは言わずとも制限はするべきだった。PCR検査も直ちに拡大すべきだったし、クルーズ船の乗客を一度の検査だけで判断して公共交通機関に乗せて家に返すなんて論外だった。しかしそうはならなかった。観光利権の絡んだ議員や、ネットの一般人のとても専門的とは言えない世論、党や省庁の重鎮たちの意見ばかり気にするあまり、対応は後手に回っていたというのが当時私が感じた印象だ。その後、専門家会議ができたが、その専門性や発言力には疑問が残る。

もっと、平常時から専門家やその意見の影響力が大きければ良かった。人間関係や権力関係に左右されず、時には政府の行動に水を差せるほどの強い力が必要だった。「総理、今マスクを配ろうとしていますが、それには時間がかかるし効果も限定的です。それよりもマスク生産の側に資源を配分するべきです。」とか「知事、その出口戦略では結局のところ収束を遅らせて逆効果です。」と言っても不当な扱いは受けず、むしろその意見が選択的に取り入れられるほどの力が必要だった。しかし、そのような力のある専門家は政府の中には居なかったのである。

思えば、この類いの失敗は日本人が何度も経験しているはずだ。太平洋戦争ではどの参謀も絶対に失敗すると思うような作戦ですら、組織の空気に押されて実行されたし、原発事故については前々から専門家が危険性を指摘していたが対策はされなかった。その後の多くの災害でも、専門家の意見を無視した判断が問題になっている。感染症に関わらず、様々な分野で専門家とその専門的知見をどのように政策判断に反映させるのか。あるいは専門家をどう育成するのか。我が国の大きな課題であろう。

解決の方向性

思いの外長くなってしまったので、詳細な解決策への言及は避け、とりあえず方向性を簡単に示したい。

まず、第一に失業をプラスに変える方法であるが、これはスウェーデンのアクティベーション政策が参考になる。

これは、失業者が就労支援や訓練を受けることを条件として失業手当を期間と金額の両面で充実させるものである。この政策によって失業は必ずしもマイナスの出来事ではなくなる。失業者は充実した訓練と、マッチングなどの手厚い就労支援を受けることになり、より早く失業状態を払拭できるだけでなく、より自分の能力を活かした職に転換できるのである。

画像4

実際にスウェーデンでは失業率の低下や賃金水準と生産性の向上、生活保護(にあたる制度の)費用の減少などの多大な効果をあげた。こうした方法を参考に、日本でも同様の取り組みが行われても良いのではないか。

第二に社会保障の基本スタイルの転換であるが、これは税や保険料といった負担とセットで考える必要がある。

現在は基本的に所得税、法人税、各種の社会保険料という現役世代の負担でお年寄りの社会保障を担っている。これを、消費税という全世代負担に転換して行く必要があるだろう。消費税増税とともに、社会保険料をある程度引き下げて現役世代に過度に集中してしまっている負担を軽減し、負担を全世代で共有するべきだ。

一方で社会保険料の一部が現役世代の応能負担である一方、消費税は低所得者ほど負担割合が大きいという問題もあるため、消費税増税とセットで、(給付付き税額控除など、低所得者ほど消費税負担を抑えるような)累進的な対応策を実施する必要がある。

一方の給付側であるが、これも強者から弱者へではなく、現役世代からお年寄りへという旧来の形が根強く残っている。例えば、医療費は現役世代が3割自己負担・7割給付なのに対して、高齢者は高齢者であるというだけの理由で1割~2割自己負担・8〜9割給付である。高所得の高齢者については3割負担とする制度もあるが、現役世代が1割や2割の負担になることはない。お年寄りにも医療費を十分払える人は多く存在し、現役世代にも、医療費を気にして病院に行けない家庭が多くあるにも関わらず、である。

そうではなく、支払い能力に応じた自己負担・給付に転換するべきだ。実は似たような問題は年金制度も含めて様々な社会保障制度に存在する。これらを総合的に、年齢から能力に応じた負担・給付へと改革することが求められる。また、一部にはベーシックインカム制度の導入を主張する声もある。私はあまりこれに詳しくはないので、今後研究の上、その是非については発表したい。

第三に、専門的知見の政策判断への導入であるが、これは少し難しい。例えばアメリカのように、感染症や災害対応政策の専門的な研究・情報収集・発信機関を国や自治体に創設するであるとか、官邸幹部を現在のように各省庁からの出向官僚で賄うのではなく、各方面の政策の専門家から登用する、あるいは追加するといった対応が考えられる。いずれにしても、ある程度身分が保証され、相応の地位に専門的知見を持った人物やその意見が投入される状況を作らねばならない。

これについては議員の質の問題もある。例えば、日本の国会議員や大臣は欧州などの海外から見ると、大学院卒業者など、専門性の高い人材の少なさが目立つのだそうだ。確かに、自民党の党内議論は熱心な人が多くいつも活発ではあるが、ちょっと稚拙さや論理性、専門性の無さが目立つ。失礼を承知で言えば学がない。もちろん議員に何を求めるかは投票者の自由だが、その判断材料のなかに政策への精通度合いや何らかの専門性があっても良い。もう少し、投票者としても、立候補者を決める党としても、そこを重視するべきではないだろうか。誰々の子どもだとか、地元の有力者だとか、票の集まる芸能人だとか言うよりはよほど国のために働いてくれる。(もちろん、世襲議員や芸能人議員にも立派な人はいる。)

反省点や改善点をあげればキリがない。ITの活用や地方分権の話など、見直すべき点は多く見つかった。とりあえず、その中でも私が強く感じた課題が以上の3点である。

おわりに

「アメリカよりは良かった」など誰が言えようか。私は口が裂けても言えない。何百もの尊い命が失われた。何百もの父や母や息子や娘や兄弟や祖父母を失った。そこには間違いなく、私たち有権者の「政治の力」を前もって発揮していれば守れた命が多くあった。この責任を政治家に転嫁することほど無責任なことはない。大きな変革を恐れ、先送りしてきた私たちもまた反省をすべきだ。コロナ前に戻ってはならない。同じ失敗と同じ犠牲を繰り返してはならない。そして、その悲劇と反省を無駄にすることなく、将来の私たちや子どもたちのために行動するのだ。

皆さんはどうだろうか。みなさんはどこに課題を見いだしただろうか。そしてそれはどう改善して行くべきだろうか。いまだ事態は収束しておらず、時期尚早な話ではあるが、いずれ考えなければならない日が来るだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?