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対馬旅行記

長崎県対馬(つしま)。言わずと知れた韓国との国境の島である。2019年春、日韓関係が悪化するなかで、私はこの島に興味を持った。それはひとつに、異世界を見る好奇心であり、もうひとつは島がいかに隣国と向き合っているのかという好奇心であった。

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運の良いことに、大学の友人に対馬出身の方がいる。島での生活や案内を助けてくれるというので、遠方の島に赴く不安やハードルをかなり下げることができた。自分の唯一の取り柄は行動力だ。対馬行きはすぐに決まった。

そこでの旅は想像を上回った。対馬で得たものは一生物になるだろう。しかし、その場に行ったからこそわかる空気がある。それを画面越しに伝えることはできない。なので今回は対馬とはどのようなところなのか、何を得られるのかという点を中心にお伝えし、皆さんが対馬という未踏の地に赴くハードルを下げることに努めたい。これを見た上で、ぜひ皆さんも対馬を訪れてみてほしい。※旅行自体は昨年行われたものです。

1日目 対馬へ

対馬へ向かうにはまず博多を目指すことになる。羽田から福岡空港に瞬間移動することもできるが、大学生には高額な負担となる。空を飛ぶと金が飛んでしまうのであれば地面をゆっくり進めば良い。バスで新宿から博多まで移動することにした。うまくやれば5000円ちょっとで移動できる。

博多から対馬への移動も飛ぶか飛ばぬかの二択だ。飛ぶのなら福岡空港から対馬空港まで30分。安くて1万円。飛ばないのなら高速船で2時間半。7000円。あるいはフェリーで5時間。4000円。大学生は学割証明の提示でさらに安くなる。大学生なら選択肢はただひとつ。フェリーでゆっくり向かうだけだ。ただし、この船だが、とても揺れる。船旅には慣れているし船酔いにも強い自覚があったのだが、さすが長い歴史のなかで幾多の旅人を阻んできた海峡なだけはある。もしフェリーで移動するのなら、早めに場所を確保し、博多湾を出る前に寝てしまった方が良い。

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23:30 フェリー出港

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博多湾から眺める福岡の街並み

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AM5:00 対馬厳原(いづはら)港に到着

二日目 厳原・安徳天皇陵

フェリーが到着した厳原こそ、対馬で最も栄えている場所である。島と聞くとどうしても超田舎の自然的生活を営んでいるような偏見を持ってしまうが、実際には某有名ホテルチェーンもショッピングセンターもあって、地方都市の郊外のちょっと栄えた駅くらいには発展している。私の出身地の札幌で言えば「南平岸駅」くらい。東京で言えば「つつじヶ丘駅」くらいだろうか。

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しかし、なんと言ってもハングルが目立つ。看板に貼り紙にパンフレット。どこを見ても日本語には必ずハングルが並記されている。耳をすませば聴こえてくるのは韓国人観光客の話す韓国語ばかりで、日本語の方が珍しい。この島の経済が韓国人観光客によって成り立っていることがよくわかる。

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地元の人曰く、博多から対馬に向かうよりも、韓国の釜山(プサン)から対馬に向かった方が断然近く、福岡方面から観光に来てくれる人も少ないのだという。なるほど日本では観光と言えば東京や大阪といった都市部に向かうことの方が多く、こうして離島に向かうのは若干邪道の感がある。一方の韓国では観光というと各地特有の自然を楽しみに行くのがメジャーであり、アクセスの良い近場の離島である対馬にはよく足を運んでくれるのだそうだ。(ある韓国人留学生談)

この厳原はまた、古くから政治や生活の中心でもあった。そして、都市部のような大規模な開発を避けて、今もその痕跡を残している。厳原の中心部にある「万松院(ばんしょういん)」は、1615年に創建されたお寺である。対馬を代々統治してきた「宗(そう)」氏一族の菩提寺であり、中には一族の墓と樹齢1200年の大杉がある。その建物は韓国の時代劇ドラマに出てくるような韓国風の建物と日本風の建物の中間のような見た目をしていて、対馬が古くから、日本と朝鮮半島の中継地点だったことがうかがえるのである。

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万松院の門

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厳原には武家屋敷跡も多く残っている

また、少し中心部から離れた所には「お船江(おふなえ)」がある。これは、1663年に作られた人工の入江で、港やドックとしての役割を果たしていたものだ。当時の形で残っているものは全国にここしかない。そこに立つと、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような感覚になってしまう。

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お船江(干潮時には水は無くなるらしい)

厳原を一通りめぐった後、私たちは久根田舎(くねいなか)地区に向かった。厳原の中心部から車でおよそ40分。山と山の間、川に沿って細長く田畑が広がる集落。久根田舎に入ると目につくようになるのが石屋根の建物である。板状になった石が天井部に積み重ねられ、屋根になった建物が点在しているのだ。

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対馬で、いつ頃からこのような石屋根の風習があったのかは古すぎてわかっていない。しかし、この対馬特有の石屋根は火災や強風から長く、島民の財産を守ってきたそうだ。

久根田舎の集落を離れ、山道を進むと、突如「安徳天皇御陵墓参考地」という文字が目に入って車を止めた。案内にしたがって山を登ると、頂上にそれはあった。

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安徳天皇といえば、平清盛に担がれる形で、第81代の天皇として3歳で即位。1185年に壇ノ浦の戦いで源義経(よしつね)率いる源氏軍に追い込まれ、草薙の剣とともに平時子に抱かれたまま入水。6歳で崩御したとされている悲劇の天皇である。その墓がなぜこの対馬の山奥にあるのか。不思議に思ったまま下山すると、地元で椎茸栽培をしているある農家の方に出会い、古くから伝わる話をしてくれた。その方によると、次の通りだ。

安徳天皇は実は入水せず、平氏の生き残りとともに対馬のこの地に流れ着いた。そして集落から離れたこの山に御所を置いた。帝が生き残っているとすれば、天皇が二人居ることになるし、皇位継承の正統性も崩れる。居場所がバレれば安徳天皇が命を狙われると考えた住民はこの地に「久根田舎」というあまりにも天皇が住んでいなさそうな名前を付け、安徳天皇をお守りし、生活を支えた。そうした住民の支えもあって、安徳天皇は75歳まで生きた。その後、対馬をおさめる事となる宗氏は安徳天皇の子孫である。その後、明治時代になると政府の知るところとなった。宮内庁も信憑性があるとしてここを「参考地」として保存することとし、最近も住民の遺伝子検査が行われたりしている。(出会った地域のおじさん談)

とても面白い話だ。地区の名前に「田舎」というあまり好ましくなさそうな名前が付いていることも納得がいく。それにしても、このおじさんからもらった椎茸はこの世のものとは思えないほど味も食感も良くて、醤油焼きはとてもおいしかった。対馬は原木椎茸の名産地として、古くから知られてきたらしい。

さて、対馬を少しまわるだけで気付くことがある。それは歴史をとてつもなく大切にしているということだ。先祖代々この島で生活してきたという誇り。あるいは先祖と共に生きているという感覚にも似ている。多くの先祖と(この世を去っているのだが)共に、支え合いながら生活をしているのだから、むやみやたらにその史跡を潰してはならないという感覚。そして、親たちがそうしてきてくれたように、自分達も自分達だけでなく、将来の子孫のために山や畑や建物を整え続けるという将来への責任感。どれも私たちが近頃、忘れかけている大切なことではないだろうか。そんなことを思う上陸初日だった。

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和多都美(わたつみ)神社

3日目 砲台跡めぐりと韓国と飯

いい感じにまとまってしまったので言い残してしまったのだが、2日目の夜ご飯が最高だった。例の友人の知り合いに美味しい海産物を沢山ご馳走していただいた。感謝の念に堪えない。特に、対馬が一大産地として有名な養殖マグロやクエは言い表せないほどの美味で、涙が出そうなほどだった。

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いまだにこれを上回る食物を口にしたことはない。人間、なかなか美味しくて感動することはない生き物だ。それを体験したのだから相当おいしい。一瞬「もうこの世に未練はない」と思ってしまうほどだった。他にもカキやサザエや穴子など、対馬には美味しい海産物が多い。ぜひ食べて感動を体感してほしい。

さて、この日は砲台跡をまわった。国境の地であり、海峡に浮かぶ島である対馬は言わずと知れた軍事的要衝であり続けてきた。特に日露戦争前後でその重要性は最高潮に達した。東郷平八郎率いる艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争における勝利を決定付けたあの日本海海戦も別名「対馬沖海戦」と呼ばれ、対馬からその様子が見え、砲弾も多く漂着したらしい。第二次大戦後、韓国が(一応のところ)友好国となったため、対馬海峡の緊迫は消え去り、勢力衝突のラインは北緯38度線へと遠ざかった。対馬の軍事的意味合いは「幸いにも」後退したが、今も対馬には多くの砲台跡が残っている。

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対馬の茂木浜にあるバルチック艦隊の大砲

そのひとつが「姫神山砲台跡」(通称:天空の要塞)である。この砲台は明治33年に建造され、大砲6門を備えた対馬最大規模の砲台である。「天空の要塞」と呼ばれるだけあって、たどり着くまでの道のりは険しい。厳原中心部からは車で25分、その後徒歩で40分ほど山を登ることになる。しかし、登るだけの価値がある。砲台なので景色は最高。しかも、明治の建物が残っていて、まるでジブリの世界に迷い込んだかのような感じになる。

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次にたどり着いたのは「豊砲台跡」である。厳原中心部から車で2時間。対馬の北端、韓国と最も近い地域にこの砲台はある。1922年、ワシントン海軍軍縮条約が締結。戦艦赤城は廃艦処分を回避するために空母に改造された。その時に外した主砲をここに据えたのが豊砲台である。当時、世界最大の砲台であり、この砲台が存在したために、太平洋戦争中、連合国軍は日本海側の都市への艦砲射撃を行うことができなかったと言われている。そんな巨砲が置かれていた場所は今では大きな穴となっている。

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巨砲が鎮座していた場所

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豊砲台の内部(めちゃめちゃ怖い)

そんな豊砲台跡からすぐのところには韓国展望所がある。ここからは韓国釜山(プサン)の街並みが見える(らしい。天気の良い時は。)この対馬が本当に韓国と近い位置にあるのだということが目で見てわかる場所だ。地元の人は、ここから釜山の花火大会の様子を楽しむことがあるらしい。

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さて、対馬といえば韓国との関係を話さない訳にはいかない。対馬は地理的運命として、歴史上常に、列島と半島との中継点であり続けてきた。不思議なことに、それが原因で衝突が起きたことはほとんどないのだという。実は対馬には観光客だけでなく、多くの定住韓国人がいる。しかし、対馬の人々に彼らへの反感は微塵も感じない。むしろ、一緒に島の社会を作り、島を盛り上げる仲間として受け入れているように見える。「対立したら結局のところどちらも大損をする。お互いに譲り合えば、結局みんな得をするんだ。」ある島民がそう語ってくれた。島といえば排他的なイメージが強い。しかし、この対馬は古くから「グローバル」を体現する場所であった。そんな対馬の長い歴史が培ってきた知恵のひとつが、線を引かずに多様性を受け入れ、強い社会を作るための仲間にしてしまうという精神であり、譲り合いの精神であり、相手を理解しようという精神だ。そしてそれこそが国境の島を発展させることのできた秘訣なのだ。これはグローバル化が進み「対馬化」が進む日本での生き方の大きなヒントになるだろう。

4日目 さらば対馬

楽しい対馬旅行も帰り道のみとなった。すぐに用事があったので帰りは飛行機をチョイスした。プロペラ機に乗るのは初めてだ。

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しかし、特に書くこともなく、わずか30分ほどで福岡空港に着いてしまった。そこから飛行機へ羽田へ。あっという間である。もしお金があれば、行きもこの方法が良かった。後味を味わう間もなく、殺伐とした東京のビル林に放り込まれてしまった。

対馬旅行を終えて

対馬と東京では流れている時間が違う。人間の重みも違う感じがしてしまう。太陽がのぼり、沈み、またのぼるのが対馬なら、時計が回り続けるのが東京である。対馬では人間は一人一人の人間であり、社会の一員であるが、東京では得体の知れない機械の歯車のひとつに過ぎない気がしてしまう。対馬では「よそ者」も社会を一緒に盛り上げる仲間だが、東京では「よそ者」は「よそ者」でしかない。しかし、都会暮らしをするようになった人類が忘れてしまったものを再確認できる場所がそこにはある。対馬は過去との国境・結節点でもあるのだ。

対馬はまた、未来との国境でもある。これからの私たちや日本の将来のために、学ぶべきものがこの島には沢山ある。

そして、この島から受ける刺激はとてつもなく大きい。本土では見たことも無いような建物や歴史的遺産から受ける知的好奇心。そして、海の幸から山の幸まで、美味しいものを食べて受ける異次元の味覚的刺激。

これまで散々言葉に表してきて言うのもあれだが、やはり言葉では10%も伝わらない。行かなければ、その場に立たなければ、空気を吸わねば、何もわからない。

人生が変わる深イイ島。交通費だけで3万円はかかるが、ニンテンドースイッチを買ってどうぶつの森に行くよりは得られる価値や人生の豊かさは大きいだろう。

意外とハードルは高くない。ぜひ一度、足を運んでみてほしい。

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対馬名物、佐賀(さか)のたい焼き。

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ツシマヤマネコ

対馬といえば「かすまき」も有名

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