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文化・芸術・教養はなぜコロナから守るべきなのか。

新型コロナウイルスが私たちに突きつけた問いは政治や経済の分野にとどまりません。
アーティスト保護不要論に代表されるように「文化や芸術や教養は私たちにとって本当に重要なのか?」という問いが投げ掛けられているのです。
もともと、俳優や画家などのアーティストの方々は不安定な立場にあります。一度コロナショックのようなことが起きてしまえば、たちまち経済的苦境に立たされます。この場合、活動をコロナ後も続けてもらうためには、何らかの支援が必要になるのです。が…そうした支援に否定的な声は少なくないようです。「不要な物を支援するのか?」と言うのです。

教養への風当たりも厳しくなっています。かつては大学の文系学部不要論が話題になりましたが、昨今、経済を優先するために、リソースを実学にまわすべきだとの意見が再び現れるようになりました。それもまた「不要な物を支援する(貴重なリソースを割く)のか?」という疑問に他なりません。

しかし、何もその疑問は珍しいものではありません。
みなさんも、古典や現代文の勉強をしているとき「こんなの勉強して、将来の役に立つのか。」と思ったことがあるのではないでしょうか?
あるいは遥か遠くの宇宙を研究することに対して「そんなの調べて、私たちに何のメリットがあるのか。」と疑問に思ったことがあるはずです。

こうした疑念が社会問題を引き起こすこともあります。例えば、政治に批判的な芸術作品や、芸術家に対して、税金による保護が行われている事に、大きな批判が巻き起こるという事が最近、愛知県でありましたね。それはまさに「私たちに直接的な利益をもたらさないもの(難解で、一部の人にとってはむしろ不愉快な芸術)を保護して、私たちに何の得があるのか。」という問いかけに他ならないのです。

そして今、その最たる問いかけが投げ掛けられています。
社会に余裕が失われつつある今、「なぜ、一見私たちの衣食住に不必要に見える文化や芸術や教養は守るべきなのか?」という問いです。 


コロナショックで、俳優は演じる場を失い、社会と経済の疲弊のなかで、文化や芸術の保護は不要な「贅沢品」として扱われています。「俳優なんて社会に必要じゃないのに、自分から好きでその道に進んだんだ。自業自得。保護しなくて良い。」そうした声も近頃は聞こえてきます。

それだけではありません。昨今は、教養よりも実学こそが経済的豊かさをもたらすという理由で重視され、もはや「教養に使う時間があったら実学を学ぶべき」とも言われるようになっているのです。まさに戦時中の「贅沢は敵だ」という空気に似ています。

よくある主張

このような議論が起こるときに、よく主張される話をまずはしたいと思います。それは、私たちが余裕を失いそうな時こそ、文化や芸術や教養は必要なのではないかという話です。

私たちも音楽に勇気付けられることがあるでしょう。音楽や芸術によって穏やかな気持ちになったり、逆に奮い立たせられることがあります。あるいは、過去の困難を乗り越えた歴史を聞いて希望を抱くこともあります。

もうひとつ、よく言われる話は、思想の多様性や自由を保証するという話です。「社会の役に立つ表現に徹せよ」と言われてしまうと、異端的な表現はできなくなってしまいます。人々は均質化し、やがて自分たちも自由な表現ができなくなると言うのです。 


これらの意見はわかりやすく、その通りだなとも思います。しかし、私はそこに加えて、もうひとつの大きな役割が文化や芸術や教養にはあると思うのです。

自分を知る数少ない手段なのでは?

私たちは、文化や芸術や教養によって初めて「自分」や「自分たち」を知る事ができるのではないか。私はそう思うのです。

例えば、私は小さい頃、教養として司馬遼太郎の『龍馬がゆく』や『坂の上の雲』を借りて読んだことがあります。それ自体は読んだからと言って何もお金にならないわけです。でも、次第に人生を進むにつれて、自分がその物語に出てくる坂本龍馬や秋山真之、秋山好古を意識していることに気付きます。

ところどころに「自分もそうでありたい」と思える箇所があって、現実の世界でもそれを実践していた。

価値観というものはなかなか体系化できません。「自分がどのような人間でありたいか」という事は簡単には説明できないし、意識として常に持つことはできません。

しかし「あの小説の誰々みたいでありたい」とか「あの映画のこの人のようでありたい」というものは簡単に説明できますし、意識として持っておくことが可能です。あるいはそうした人物と比較して、自分はどこが足りていないかも知る事ができます。あるいは反面教師として意識したり、「あの人」みたいな悪いところが自分にもあると気付いたりもします。

そう、私たちは物語や芸術を通して、自分がどのような価値観に親和性を持っているか、自分はどこが長所でどこが足りない点なのかを知らず知らずのうちに気付く事ができるのです。

他にも、数学を学ぶことで、自分が数的に物事を考えることが苦手なのも気付きましたし、空間を認識するのが得意なことも気付きました。

反戦のメッセージが込められた絵画を見たとき、自分が平和を大切にしていることも気付きましたし、自然との融合を感じる彫刻を見たときに、自分が自然と人類との調和を大切にしていることもに気付いたわけです。

逆に、人類の愚かさを表す作品を見たときには違和感を覚えました。そして、人類には愚かさを自ら修正する知恵が備わっていることを自覚したのです。

あるいは宇宙を深く知ることで、人類がいかに珍しく偉大な存在であるかを知ることもあれば、宇宙の規模から見た自分の儚さに気付く事もあります。

「自分たち」を知る事もできます。文化や歴史を知ることで、私たちは過去からの延長線上にいることを知ります。過去の営みを知り、同じ社会を今に引き継いでいることを知るのです。そして過去に、社会をより良くするために行われてきた様々なことを知り、その延長線上にいる自分たちも将来をより良くする責任を持っていることを自覚できます。

文化や芸術や教養の大切な役割のひとつは、まさにこの「自分」や「自分たち」を知るところにあるのではないでしょうか。

これはとても難しいことです。他人のことはいくらでも知る事ができるのに、自分のことは客観的に見ることができない。むしろ主観的に、美化したり卑下してしまったりするのが人間というものです。その自分を客観的に見る機会をこれらは与えてくれるのです。

そして、それは生きる上での大きな武器になります。自分はどのような強みがあって、何をできるのか。どこに弱みがあって、何ができないのか。それを知ることでいつも適切な行動を起こせます。それはコロナショックのような危機にあろうが、そうでなかろうが、必要なことなのです。文化や芸術や教養は贅沢品なのではありません。人生を送る上での必需品なのです。

創り手がいなければ芸術や教養は成り立たない

そしてこれらは、なんと言っても優れたアーティストや研究者によって成し得ます。表現力の高い作家や歌い手や俳優や芸術家。歴史の真実や私たちとの繋がりを明らかにする学者や、価値観を発掘する学者。こうした多種多様な創り手の方々が切磋琢磨し、人々に受け入れられて行くことでこれらは意味を持ちます。

もし、競争の中で、受け入れてもらえず、リタイアして行く創り手がいたとしたら、それは仕方のないことでしょう。しかし、コロナショックのような事態で、個々の能力ではなく、現時点での経済力のような理由で創り手がリタイアしてしまったら、それは切磋琢磨的な状況を失います。

もしかしたら、その中に誰かの人生を変えるような俳優がいたかもしれない。もしかしたら、将来のスターがいたかもしれない。そうだとしたら私たちにとって大きな損失です。

文化や芸術や教養を大事にできない社会は、自分自身や自分たちについて知る事ができない社会です。自分を知らずして、より良い自分を目指すことはできないし、自分たちを知らずして、より良い自分たちを創ることはできないのです。だから創り手を守るべきなのです。私のために。より良い私たちのために。

今、多くの表現者や研究者が活躍の場を失って呻吟しています。早く社会活動が正常化することを願ってやみませんが、難が去ってみたら表現界や研究界がボロボロになっていたという事態は避けたいのです。あるいは、難が去ってみたら人々が文化や芸術や教養の必要性を見失っていたという状況は避けるべきなのです。これらの事態を避けるために、創り手を保護することの大切さを認識してほしいところです。

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