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啓蟄 ‘24

過去の傷はなかなか癒えることはない。癒えたとしても跡になってそこに残っている。

癒えてないものにはどんなに目を背けても触れてしまう。
無意識のうちに瘡蓋を剥がしてそのかたちを確かめようとしている。
その痛みに顔を曇らせて、こんな傷は忘れてしまおうと何度も自分に言い聞かせている。

逃げても逃げても、過去はいつも私の足首を掴もうとしている。


昔、理不尽と皺寄せの掃き溜めみたいな場所で働いていた。
掃き溜めを整理するのに、自分を守ることに精一杯で何も見えていなかった。

ある日、職人たちが定盤の上に雑に投げ捨てたウエスを見つけた。使ったことさえ忘れて、踏まれて、靴の跡がついている。
ああ、あれは自分みたいだなと思った。その夜退職届を書いた。

周りの人達はとくに驚かなかった。予期していたというより興味がなかったのだろう。
仕事のことはどうでもよかった。ただ、加藤さんに会えなくなるのが辛かった。加藤さんの涙を思い出してはまた1人で泣いた。


あれから数年が経ち、私も、あの場所ではまるで塵塚に鶴のようであった加藤さんも、それぞれが違う所に転職し、仕事に関しては充実した日々を送っている。
昔のように、仕事を軽く見られて評価されず無駄に叱責を食らうという事は無い。平等に努力に対して評価を得られている、それは簡単なようでとても幸せな事だと思う。

あのときウエスを見つめて込み上げてきたのは悲しみではなく怒りだった。人を軽んじることを恥とも思わない人たちに対する怒りだった。
その怒りは、今、周りの人たちのおかげで癒えていく。彼らに対する怒りが薄らぎ、憐れみへと変わっていく。

こうして少しずつ、足首を掴もうとする影がまた一つ消えた気がする。


啓蟄。
眠っていた虫たちが目を覚ますとき。
目を覚ますのはきっと、虫たちだけではない。

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