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お祈りとお願い

あんたも初詣、行ったかい?

俺の家もご近所にある結構大きな神社とその近所にあるお寺に初詣に行ってきたんだよね。

日本人にとって初詣ってやつは欠かし難い行事なんだと思う。
普段は宗教行事ってやつと縁遠い生活を送っている俺たち日本人が純粋に宗教的な概念に従って行う数少ない行動の一つだよな。

普段は何気なく通り過ぎるだけの神社も、このときばかりは厳かな雰囲気を体全体で感じるってもんだよな。

今回はそんな恒例の初詣でみた風景について振り返ってみる回だ。

まあ、あんたの初詣とあんまり代わり映えはしないかもしれないけれど、ちっとばかり付き合ってくれよな。

二礼二拍手一礼のお作法

初詣でやることと言えば、何を差し置いてでもお祈りだよな。

年のはじめに神様にお祈りをする。
これほど日本人の原風景と言っていい光景ってのはなかなかない。

二礼二拍手一礼ってお作法を知ったのは結構大人になってからだったけれど、今となっては誰もが普通にやっているお作法だ。

調べてみると、この二礼二拍手一礼ってお作法が正式なお作法になったのって結構新しい歴史のようだ。
「神社祭式行事作法」ってのが明治40年に制定されて、その時のお作法としては「再拝(二度続けて拝むこと)→二拍手→押し合せ(合掌のこと)→祝詞奏上(神主さんが読んだりするあれを声に出して唱える)→押し合せ→二拍手→再拝」って流れだったらしい。

今の二礼二拍手一礼と比べるとえらく手間のかかる参拝方法だったわけだね。

この「神社祭式行事作法」は幾度となく改定されて、式の円滑な進行や、考え方の変化を取り込んでいったらしい。
で、昭和23年に改訂された段階で二礼二拍一礼が正式な拝礼作法となったってことなんだと

どうもその形になる前にあの伊藤博文が「一揖(いちゆう・浅い礼)、再拝、二拍手、一揖が正式な作法である」っていい切ったことが広く伝わって、いまの二礼二拍手一礼になったってことらしい。
なんか思わぬところで歴史上の人物が出てくるもんだよな。

ってことは、今の二礼二拍手一礼のお作法ってのは土佐のお作法が源流にあるってことになるんだろうな。

お祈りの内容

俺も今年の一年をどう過ごしていくべきか考えながらお祈りをした。「今年一年、お見守りください」ってね。

実際、今年2020年は激動の1年になることだろう。

オリンピック景気のあとに控えている不景気は想像に難くない。
現実問題として、今の株式を流動性の低い金融商品に切り替えていくタイミングなのかもしれない。
それほどの不景気が来ることが予想される。

でも、当然ながらそいつを神様にお願いするってのは筋違いだよな。
何にせよ、世の中を動かしているのは他でもない俺たちなんだから、俺たちの行動を見守っていただくことが精一杯のお願いってところだ。

そんな風に思ってお祈りをしている横で、とある子供がその親御さんに向けてこんな質問をしていた。

「ねえ、ここでお願いしちゃだめなんだよね?」

おうおう、なかなかにキチンと教育が行き届いているじゃないの。
でも、まあ子供が「お願い」しちゃダメってのもなかなかに酷なことだよな。
なんつっても、子供が世の中で出来ることってのはものすごく限られているしな。

そんな子供の立場に立って、我が子から同じような質問が出てきたとしたら俺はどう答えたらいいんだろう?

ちょっと考えてみてくれよ。
子供ってのはありとあらゆることに興味を示して、いろんな事を学んでいく。その学びの中にはこう言う「神様」についてのことも含まれるはずだ。

神様ってのはヒトが作り上げた虚構の一つだ。
神様という物語を信じることで、ヒトは社会を前に進め続けた。

だとすれば、この「お祈り」で「お願い」をしない物語をどう伝えれば、子供たちはより前向きに生活できるようになるのかって問題だね。

俺なりに考えた答えはこうだ。

「神様は願い事を叶えてくれるんじゃない。神様は願い事を叶えようとする君を応援してくれるんだよ」

多分、この辺が俺の思いつく限界かもな。

なあ、あんただったらどうする?

神様って物語を通じて子供たちに何を伝えていこうか?

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