発音へのこだわりという足かせ
あんたもグローバル化ってキーワードを聞いたことあると思うんだ。
SNSで世界中のヒトたちとつながっていると、日本国内では感じることが出来ないようなことを感じることが出来ることがあるよな。
言われてみれば「はは~んなるほど」と納得できることだったりするわけだけれども、言われるまで考えもしなかったようなこと。
しかも、それが俺たち自身が誰かを傷つけているかもしれないってこと。
そんな気付きがあったりする。
今回は、俺が入らせてもらっている西野亮廣さんのエンタメ研究所のメンバーのヒトからもらった気づきについて考えてみる回だ。
ちょっと耳が痛いところもあるかもしれないけれど、付き合ってくれよな。
日本語をうまく話せないヒトに対する俺たちの態度
西野亮廣さんのエンタメ研究所にはメンバー同士がやり取りするためのTwitterの仕組みがあるんだけれど、その仕組の中で流れてきたつぶやきにこんなのがあったんだ。
ざっくりいうとうまいこと日本語を話せないヒトに対して、俺たち日本人はどうやらあざ笑ってしまっているってことらしい。
何?そんなことするもんかって?
いやいや、ちっと胸に手を当てて考えてみようぜ。
この10年でびっくりするくらいに生活圏に外国籍のヒトが現れ始めているよな。
コンビニの店員さんは日本人のほうが少ないくらいだし、ちょっと出歩けば、明らかに日本人の風貌ではないヒトを見ない日は無いよな。
中には確かにまだ片言の日本語しか話すことが出来ないようなヒトも居ると思う。
そんなヒトに出会ったときに俺たちはどんな顔で話を聞いているんだろう?
多分、ニコニコして話を聞いているんじゃないか?
心のなかで「頑張れ~」とか思いながらさ。
でもね、そのニコニコ笑顔、逆の立場だったらどう思うかって考えたことあったか?ってそのつぶやきは教えてくれたわけよ。
例えばあんたは英語をうまいことイントネーションとか含めて話せないとするじゃんか?
そんなときに、あんたに向かって相手がニコニコしてたらどう思う?
あんたは真剣な話をしているときにだよ?
ちっと気分悪いんじゃないか?
そのつぶやきは俺にそんなことを考える切っ掛けをくれたんだよ。
英語圏のヒトがたどたどしい英語をどう聞いているか
英語の場合は共通語のような要素があるので、多少イントネーションが違っても、それほど気にはされないってことが多いらしい。
確かに、英語の方言ってえげつないほどの違いがあるもんな。
学生時代にイタリアに行くことがあったんだけれども、向こうの人って13のことをサーティーンって言わないで、トレティーン(トレはイタリア語の3)とか言うんだよな。
最初は何のことかわからずに鳩が豆鉄砲を食ったようなツラを晒していたわけだけれども、それくらい英語ってのは発音に対して許容度が広いってことなんだろうね。
そんな状況なもんだから、個人が英語をつかって自分たちの使っている英語と多少異なっていようが、んなもん気にするのも馬鹿らしいってことらしい。
日本人は言語の発音に気を使いすぎなのか
対して日本語は日本語の方言ですら許容しない雰囲気がたしかにあるよな。
東京でもろに東北弁を使っていたら、それだけで俺たちは奇異の目をそのヒトに向けてしまいそうだもんな。
これって義務教育を含めてこれだけ英語教育が成されていても「私は英語を話せます」ってヒトが少ないってことにつながるような気がするよな。
なんつーんだ?
正しい発音を出来ないやつは話す資格なし!くらいの感覚が俺たちの根っこにあるもんだから、いつまでたっても英語を「実践」することが出来ない。
だって正しくないとバカにされると思うもんな。お里が知れるくらいに思われちまいそうだもんな。
……あ。これだ。
やっぱり俺たちにとって発音が正しく出来ないってことは「バカにされて然るべき」って感覚があるんだと思うんだ。
これってなんでなんだろうな?
ちょっと調べてみたものの、これって理由が見つからなかった。
一つだけ言えるのは、この「発音できないことをバカにする」って感覚は間違いなく、これからのグローバル化の世界では俺たちにとってでっかい足かせになるってことだと思うんだ。
言語の本質は「伝える」ことなんだから、多少の発音の差なんてのは個性くらいに思っておいたほうが良さそうだもんな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは発音へのこだわりという足かせをどうやれば外すことが出来ると思う?
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