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情報の分断と失われる共感

あんたもnoteを日々楽しんでいるかい?

実に多くの記事が日々追加されていく中で、今の自分が欲している情報にたどり着くってのは至難の業だよな。

ある程度の実績があるライターさんの記事は確かに読みやすくて、なるほどなぁって思うこともあるし、シンプルに楽しい思いを提供してくれていたりする。

そう言う、今の自分が欲している記事にたどり着くためにタイムラインを追っかけてみたり、キーワードで検索してみたり、タグをたどってみたりするわけだけれだ。
ただ、なんかで読んだんだけれども、近い将来、俺たちはこう言う「情報を探す」って行為そのものをあまりしないようになるって話があるらしい。

今回は情報を探すことをしなくなった俺たちはどうなるのかを考えてみる回だ。

ちっと読者としての自分と発信者としての自分を見つめ直してみようぜ。

俺たちが楽しんでいることのデータ化

実際、俺たちが日常の中でGoogle検索をして、いろいろ探ったりすることはあると思うんだ。
その検索の結果、たどり着いた先のサイトにどれだけとどまっているのかとか、その先のページからどんなページへ飛んでいるのかとか、そう言うネット上での行動を逐一データ化して、それをAIで解析することによって、Googleの検索精度はどんどん上がっていくって仕組みだよな。

同じことがfacebookなどのSNSでも言えていて、これらの仕組みはなんなら俺たち自身よりも俺たちのことを理解しているってスンポーだ。

そうなってくるとSNSのタイムラインだったり、Googleニュースのおすすめ記事だったり、俺たちに提供される情報ってのに対して、検索という俺たちの行動をすっ飛ばして提供される様になってくる。

結構エグい話だよな。

俺たちが情報を捕まえに行く意思

インターネットが普及する前。
俺たちにとっての情報源は本やテレビなどのメディアだったと思う。

今でこそ、自分の家にテレビがないってのは普通のこととして捉えられているけれど、ちょっと前まではそんなこと想像もできない状況だったと思うんだ。

考えてみると、本については出版業界の都合もあって、実に多くの本が出回っている。
ところがその本の内容については、「似たような本」ってのが有象無象にあるってのが現実だ。

この辺は出版業界の特殊性について別のnoteで書いてみているので、合わせて読んでみてくれよな。

で、テレビについても考えてみる。
テレビ局ってのがメチャクチャ限定された会社によって運営されているので、俺たちはテレビから流れてくる情報の取捨選択ってのが出来ていなかった。
結果としてテレビから流れてくる「同じ情報」を前提として俺たちは行動するって世界観だったわけだ。

なるほど、インターネットができる前から、俺たちは情報のより好みなんてことはしてなかったってのが現実なわけだ。

そう考えてみると、ネットで「検索」という行為をするのは、歴史上俺たちが情報を取りに行く意思を持つ唯一無二のタイミングだったのかもしれない。

検索を失った俺たちがどうなるのか?

では、検索すること無く情報にリーチできるのが今よりも進んで、俺たちがほとんど検索をしなくなったときに何が起きるのか?

俺たちが受動的にしか情報を得ないっ意味ではテレビからだけ情報を得ていたときと変わらない面もあるとは思う。

ただ、それよりも深刻なことが起きる気もするんだよね。

それは、テレビのときと違って、俺たちが得る情報がバラバラになるって状況が生まれるかもしれないってことだ。

SNSなどの仕組みは俺たちのネット上での行動や、なんなら現実世界での行動まで含めてAIで解析していく。
その結果として、俺たちがよりビビットに反応する情報を俺たちに提供するようになっていくことは想像に難くない。

その結果、俺たちは「共通の話題」を失うことになる。

家族で同じテレビを見て楽しむなんて一家団欒風景すら個別のデバイスで分割されていく。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちが望むまま、共感を失っていくことになると思うかい?

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