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1500日連続投稿のモチベーション

あんたにも続けていることってあるかい?

俺の場合は、この記事をもってnote連続投稿1500日なんだそうだ。

まあ、続いている方だと思うんだけれど、はたから見たら「なんでそんな事やってんの?」って思われるやつだよなぁ。

だって、ぶっちゃけ記事を書き続けていても、人気を取っているnote作家さんとは文字通り桁が違うくらいしか読まれていないと思うし、スキを押してもらえたりすることはもっと少ない。

今回はそれでも俺が投稿を続けている理由を言葉にしておく回だ。

まあ、オッサンの自己満足の言語化に付き合ってくれよな。

スキをもらったときの喜び

ぶっちゃけ、この「スキ」をもらうってのが俺のモチベーションの多くを締めているってのはあるかもしれない。

少なくとも「スキ」を押してくれているってのは読んでくれたことだって思って良いと思うしね。

前にもちっと書いたけれど、ビュー数ってページビュー数じゃなくて、noteのタイムラインに表示されるだけでカウントされる数字なんだよな。

なので、現実的には俺の記事が読むに値しているのかどうかってのにはダッシュボードのビュー数ってのはあんまり使えない数字なんだよな。

それに対して「スキ」は確実にヒトが意図をもって押してくれている数字なので、読むに値すると思ってくれたヒトの数って数字だと思ってるんだ。

で、こっからが俺の感覚になると思うんだけれど、同じヒトからスキを貰えるのってめちゃくちゃ嬉しくないか?

なんでって?

前に別の記事を読んだときに、「あ、これオモロイ」って思ってくれたから、もっかい読んでくれたってことだろ?
それってサイコーの評価をもらったってことじゃんか。

コメントをもらったときの喜び

さて、「スキ」よりもハードルが高いのが「コメント」だよな。

ぶっちゃけ、俺の記事にコメント残すのって、他のヒトのnoteに比べると残しにくい感覚があるのかもしれないって思ったりする。

いわゆる技術系のお役立ち記事になら、シンプルに技術的な質問コメントが残しやすいし、純粋なエッセイみたいなnoteなら心の反応するママにコメントを残せると思うんだよ。

ただ、俺のnoteって理屈で固められたエッセイみたいな感じがあると思うんだよな。

この理屈ってのは本質的に相手にするのが面倒だって感覚があると思う。

理屈に対する反論ってのは実に労力を伴うし、同意するにしてもそこには理屈を求められている気がするってのはあるのかもしれない。

そのハードルを乗り越えてもらえたコメントは実に貴重だよな。
それこそ、どこのお店に行っても手に入れることの出来ない何かだと思うんだよ。

文章をまとめられたときの喜び

で、毎回の記事を書くにあたって、何かしらの「オチ」を付けないと記事は終われないわけだけれども、何気にここも出たとこ勝負な書き方をしていると思う。

俺の場合、ふわっとしたテーマは決めて書き始めるんだけれど、その結論がまだ頭の中に定まっていない状態で書き始めるんだよ。

書くことのフィールドは決めているけれど、ゴールは決めてない感じ。

そうすることで、俺というオッサンがモヤっとした何かを捕まえに行くって感じなんだよ。

心の中に降り積もった地層から化石を掘り出すようなイメージかな。

で、当然うまく書けなかったなあって日もあれば、なんかうまく書けた気がするって日もある。

ぶっちゃけ、自分の「うまく書けた」って思った記事ほど、「スキ」も「コメント」ももらえなかったりするんだけれどね。

それでも、自分の中でうまく書けたって思えたときのあの感覚は捨てがたいものがあると思うんだよね。
そうか、俺はこんなふうに考えていたのかって自分の書いた文章が自分に教えてくれる感じ。

まあ、究極の自己満足ってやつだな。

そう言うカタルシスがあってもいいべ?

なあ、あんたはどうだい?

あんたはどんな理由でnoteを書いているんだろうな?

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