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主観に彩られた情報

あんたはあんたに伝わってくる情報ってのがどういうものなのかってことについて考えたりするかい?

情報化社会なんて言葉があまりにも当たり前過ぎて空気みたいな言葉になっている現在、改めて自分が受け取っている情報について考えてみると、そこに伝える側と受け取る側の主観ってのが大きく関わっていることが感じられると思う。

何を今更、ってあんたは言うかもしれないな。

ただ、この主観ってのを作り上げているものは何か?って考え始めると沼にハマる。
情報が俺たちの主観を作り上げているなら、その主観によって受け止められる情報とはなんだ?っていうことになるもんな。
いわゆるたまひよ状態になっちまうわけだ。

今回はこの情報と主観について考えてみる回だ。

ちっと、俺たちにまとわりつくこの2つの要素について考えてみようぜ。

双方向に影響する主観

あんたもここnoteやX(まだ慣れないなこの名前)やfacebookと言ったSNSでの発信ってのをしていると思う。

ネットが普及する前に個人レベルの主観がこんだけダダ漏れになる状況ってのを想像できたか?って言うと正直俺の想像力ではそこまで考えは及ばなかったと思う。

俺の場合はいわゆるパソコン通信の世界からネットというものを体験していたけれど、個人の意見、主観がこれほど他の誰かの主観に影響を及ぼす世界観は想像出来なかったんだよ。

例えばさ、テレビの報道番組とかでコメンテータと言うヒトたちが色んな意見を言うじゃんか。
ネットがない時代ではその意見に対して「ほほう、そうなのか」と受け止めることが主体になって、その情報の裏側にあるであろう意図にまで意識が向かっていなかったと俺は感じているんだ。

しかもその情報は、地上波テレビと言うものすごい特権を行使出来る一部の企業の情報発信に偏っていた。

ところが、ネットやその上でSNSがサービスとして提供されることによって、状況は一変した。

テレビを始めとするマスメディアがこぞってネットの動向を見て、その大衆の感覚におもねるような情報発信を始めてしまった。

主観に流される世界

具体例を少し考えてみる。

例えばALPS処理水の海洋放出に対する個人の主観ってのがどうなっているのか?

おそらく、「ALPS処理水の海洋放出をNGとする意見を言うヒトは科学的根拠を無視している」って感覚を持っているヒトが多数はなんじゃないか?

本来は、このALPS処理水は万能じゃなくて、トリチウムは除去できないし、それ以外の放射性物質も完全には除去できない。

もちろん海洋放出の正当性もあるという意見もあって当然だと思うけれど、問題はある意味「盲目的」にこのALPS処理水の海洋放出と言う手段を追認しているって現状にあると思うんだよな。

なぜ「盲目的」になっているのか。

俺の認識だと「中国が反対しているから」って要素がデカイ気がするんだ。

これはマスメディアだけの問題じゃなくて、ネット上でも中国を含んだ特亜三国(中国、韓国、北朝鮮)に対する嫌悪感が浸透しているってのがあると思う。

もちろん、過去に色々あったのでこの嫌悪感が沸き起こることは自然な流れだとは思うんだ。

問題はその沸き起こった嫌悪感が情報を「盲目的」に受け止める土壌になっちまっているってことだ。

結果として俺たちは見たい情報を見たいように見ているって状況が生まれているってわけだ。

個人で情報の吟味ってのが可能か

この「盲目的」に情報を捉えるってのはいかにもまずいと感じるじゃんか。

じゃあ、どうすんだって話だけれど、自分と反対の意見を持っているヒトの発信を吟味するってことによって、自分の意見ってのの相対的な位置みたいなものを分析するしか無いように思えちまう。

でも、それって現実的じゃないよな。
俺たちは日々の生活にキリキリ舞いで、ただでさえ濁流のごとく流れてくる情報を一回頭の中を通すことすら難しいのに、吟味なんてしている余裕はないってのが現実だろう。

結果として、俺たちはどんどん大衆化していき、政治の世界やその他の重要な決定について「追認」していくしか無い状況が今ってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

この情報の海を渡っていくのに俺たちが乗っている船の竜骨である「意見」をどう育てていけば良いんだろうな?

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