「意味」という価値

あんたも自分の体調と相談しながら日々を過ごしていたりするかい?

オッサンともなると、体調不良ってのが日常の中に溶け込みすぎていて、びっくりするくらいに不快感とともに生きているってのが当たり前になってくる。

胃腸は常に動いてくれていないような不快感があるし、目は霞むし、足元はふらつくし、手も震える。
この季節になると鼻詰まりで夜中に起きちまうのはご愛嬌って感じだ。

こうなってくると嫌でも考えることがある。

俺がいつ死んで、その後の世界で俺の愛する家族はどうなってしまうのかってことだ。

今回は、俺たちの命の意味ってやつを無理やり言葉にしてみようって回だ。

ちっとばかり観念的な話になっちまうと思うけれど、付き合ってくれよな。

意味という虚構

こう言っちまうと身も蓋もないわけだけれども、そもそも「意味」ってものに実態は無い。

俺が何かをして誰かが感謝を感じたとしても、その感謝ってのは客観的に観測できる事実じゃないし、俺が行動するって動機そのものも観測できない。

この意味ってやつは、ヒトという生き物だけが認識できる虚構ってわけだ。

意味が虚構だからって、その存在意義がないっていいたいわけじゃない。
ヒトという生き物はその虚構によってこの地球上を生き延びてきたと言っても過言じゃないわけだからね。

その前提で考えると自分が生きてきた意味ってのは「自分が起こした行動で誰が何で協力できるようになったのか」ってことになると思うわけだ。

シンプルに考えると、俺が結婚することで「一緒に暮らす」という協力を妻とすることが出来るようになった。

仕事をすることで、プロジェクトごとの目的を共有しながら仲間と協力することが出来た。

そこでふと考える。
このnoteを書くことで、誰かが何かで協力できるなんてことはあるんだろうか?
もっとストレートに言えば、俺のこのnoteに意味はあるのか?

書き続けることの意味

ぶっちゃけ、このnoteを読んでくれているあんたは、結構レアだと思うんだよね。
世の中にいる全てのヒトの中で何億分の1の確率でこのnoteにたどり着いてくれて、その上でこのnoteを読み進めてくれているあんたは、まるで奇跡みたいな存在だと思うんだよ。

その奇跡的なコトを経て、俺のnoteはあんたが誰かと行動を起こすきっかけを作れているのかって考えると、そこまでの力を俺が書いてきたことが持っているとは思い難い。

つまり、シンプルに俺のnoteには意味が無いって話だ。
あんたが行動するきっかけを与えられていないって事実を考えればね。

でも、俺は日々このnoteを書き続けている。
なぜって?
だって、あんたらとのつながりそのものだって俺が感じているからだ。

ここのnoteには俺のストレートな感覚を言葉に落とし込んでいっている。
楽しいと思ったこと。
悲しいと思ったこと。
嬉しいと思ったこと。
おかしいと思ったこと。
全部、そのまま言葉に落とし込んでいっている。

その言葉を読んでくれたあんたは「スキ」を押してくれたりコメントをくれたりする。

その反応を見て、「ああ、俺は居ていいんだね」って心底思える。

そんなエゴでこのnoteは書き続けられている。

つまりね、あんたの「スキ」だったりコメントだったりは、俺が今日誰かと何かを協力するための原動力になるって「意味」を持っているんだ。

コメントの内容が俺の意見に対する否定の意見だったとしても、その「意味」は全く揺らがない。
だって、俺が感じたことに対する感想を持ってくれたってことだもんよ。

感想を持ってもらえる。
それはそれだけで俺にものすごい「意味」を与えてくれる。

だからさ。
このnoteはあんたに「意味」を与えることは出来ないかもしれない。
でも俺はあんたから「意味」をもらうために大切なものだと思っているんだ。

だから今日も俺はあんたに問いかけよう。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの発信はどこかの誰かの意味を作り上げる日は来ると思うかい?

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