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俺たちを「支配」している善悪の物語

あんたはどんな物語が好みだい?

最近オーディオブックで俺が聞き直しているのは下町ロケット。池井戸潤さんの傑作下町技術屋物語だ。

その物語に出てくるのは、多くの良いヤツと悪いヤツ。

非常にわかりやすい二極構造だ。

改めてこの物語に触れてみると、この二極構造ってやつが俺たちを魅了している一つの要素なんだなぁと思う。

今回は、俺たちが勧善懲悪という物語になぜ惹き寄せられるのか。その事を考えてみようという回だ。

俺たちの中にある良いことと悪いこと。ちっと考えてみようや。

勧善懲悪の物語

俺たちの中で勧善懲悪の物語の元祖って言えば、まあ水戸黄門だよな。

悪代官が越後屋と結託して「ふっふっふ。そちも悪よのぉ」ってあれだ。

水戸黄門は最近では武田鉄矢さんが演じているのが放送されている。

改めて調べてみると、今まで水戸黄門の黄門様を演じているのは16人もいるそうだ。
あ、ギャグっぽい「爆笑! ふたりの水戸黄門」とかでは間寛平さんが黄門様を演じているのか。そうなのか。

それほど、俺たち日本人を惹きつけてやまない水戸黄門という物語。

何が俺たちを惹きつけているのか。

その要素の中で、無視できないのがこの勧善懲悪という物語の型なんだと想う。

改めてこの勧善懲悪という言葉をWikipedia先生に聞いてみた。

勧善懲悪の文学様式は、時代劇や多くのハリウッド映画、ヒーロー戦隊番組に於けるシナリオにおける典型的パターンである。これは善玉(正義若しくは善人)と、悪玉(悪役・悪党・搾取する権力者など)が分かれており、最後には悪玉が善玉に打ち倒され、滅ぼされたり悔恨するという形で終結する。一般にはハッピーエンドとされる形で物語は終幕を迎えるパターンである。悪としてよく扱われるのが、一般に強大な権力を保持し、正義を好まない人物や組織である。対象は作品によって異なるが、その時代や特定勢力を風刺していたり、または架空に作り上げたりと行った場合が多い。
出展:Wikipedia

勧善懲悪の物語は基本はハッピーエンドとして俺たちは認識している。

確かに水戸黄門では、最後の47分に「この印籠が目に入らぬか」でべべーんって締まる物語を何度となく味わってきている。

その後、悪代官が「へへー」って権力の前に屈していく様が描かれていくよな。

この悪人がやっつけられる快感ってのが俺たちを惹きつけているってわけだ。

俺たちが悪人がやっつけられることを望むわけ

なんで、俺たちはこれほどまでに悪人がやっつけられるということに快感を覚えるのだろう?

水戸黄門の悪代官や越後屋がやっつけられるときにも、下町ロケットで知財ビジネスで佃製作所をハメてやろうとしていたナカシマ工業が完膚なきまでに和解金を払う羽目になったときにも、俺たちはスッとした快感に酔いしれている。

そもそもこの俺たちがやっつけられてほしいと思い続けている「悪」ってのはなんなんだろう?

基本的に悪っていうのはサピエンス全史風に言えば、それそのものが俺たちヒトが生み出した物語の一つだ。

悪って物自体に実態はない。ただそれが「悪」だって俺たちヒトが共通認識として持っているって思い込んでいるものの一つってわけだ。

この悪という物語が俺たちヒトにもたらした影響ってやつは計り知れない。
悪があるからこそ、「そうなってはいけない」と俺たちは思えるし、悪があるからこそ、善に俺たちは憧れることが出来る。

悪も善もヒトが結託して物事に取り組むための概念ってわけだ。

つまりは、俺たちは俺たちが安心して暮らしていくためにこの善悪の対立という物語を本質的に欲しているってわけだな。

そりゃー水戸黄門の物語が作られ続けるってわけだよな。
勧善懲悪ってのは、どうやら俺たちヒトが生きていくために必要な秩序ってやつの根っこにある物語ってわけだ。

完全な悪人と完全な善人

でもまてよ。物語としての悪人やら善人ってやつは成立するけれど、俺たちが毎日あがきまくっているこの世界ではどうなんだ?

当たり前だが、善も悪もただの「物語」なのだから、それを完全に体現するヒトは存在し得ない。

っていうか、完全な悪も完全な善も定義なんて出来ない。

定義出来ない以上は、俺たちヒトは完全な悪人にも完全な善人にもなることは出来ない。

この世では勧善懲悪なんて状態は物語として作り込まなければありえないってわけだ。

あいつは悪い奴だなんてのは、俺たちが俺たち自身の中で持っている悪という物語に対するパターンマッチングに過ぎない。

でも俺たちは悪いことをやっつける快感ってやつに酔いしれてしまう。

SNS全盛の今、何かのニュースで誰かが「悪いこと」をしたと報じられると同時に、俺たちはそいつをバッシングしてし始める。

なぜだ?

俺たちは勧善懲悪の善になることに酔いしれてしまうからだ。

何百万もの名前なきバッシング。

それがどれだけ暴力的なことなのかを俺たちは知っているのに、その暴力を息をするように自然に行使してしまう。

それほど、俺たちは善悪という物語に支配されているってことなのかもな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、善悪の物語に支配されてしまっているのかね?

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