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受験というハードルの意味

あんたは子どもの教育制度ってのについて考えることがあるかい?

息子がいよいよ6年生ってなって、中学生ってのをリアルに手続き的に考えるわけよ。
我が家の場合は中学受験とかはあんま考えてないんだけどさ、それでも中学生になるってことで、環境が変わるわけだ。
なので息子に向けても「なんで中学受験を選択しないのか」みたいなことを主体的に考えてもらわんと将来的に後悔につながっちまう気もするわけだ。

ぶっちゃけ、俺の経済的状況ってのも要素としてはあるかも知らんけれども、それよか俺の中で別の中学受験をしない理由ってのが大きい気がするんだ。

今回は俺の中学受験というプロセスを踏まないほうが良いって考えた理由を記録しておく回だ。

いや、全然正しいこととは言えないし、誰にも当てはまる話じゃないとは思うんだけれど、俺の感覚に付き合ってくれよな。

ア・テストというシステム

俺の中でね、結構重みを持って中学受験ってのに違和感を持つのがこの「中高一貫」ってシステムなんだよな。

俺は神奈川出身なんだよね。
で、公立の中学校に通っていた。

いわゆる団塊ジュニア世代なんで、めちゃくちゃ生徒数がいてさ、都度都度なんかのタイミングで切磋琢磨することが求められていた。

俺が通っていた学校ではなかったけれど、成績順位を公開される学校もあったって聞いている。
まあ、そんなんがなくても当時の神奈川では絶対的に格付けをする仕組みが設けられていたんだよ。

ア・テストだ。

他の都道府県のヒトには馴染みが無い言葉だと思う。
こいつは中学2年生の時点で行われる学力テスト。
そのア・テストの結果によって、そもそも受験できる高校が限定されるって仕掛けだ。

つまりは中学校2年の中盤の段階の学力で「おめえはバカだからこの高校にくらいにしか行けねぇよ」って烙印を押されるわけだ。

いやいや、たかだか1年ちょっとで学力判定するの無理じゃね?って思ったりするじゃん。

でも、そのシステムは実際に運用されていたし、その仕組に則って俺たちは必死に勉強をした。

まあ、その結果は輝かしいものにはならんかったけどね。

で、思うのよ。

うん?ア・テストが無ければ俺はもうちっと良い高校に行けたのか?って。
もちっと言えば、良い大学に行けたのか?って。

だってア・テストがあることで、事実上次の学年の学習内容に進むことが出来ず、ひたすらにア・テストの出題範囲の勉強しか出来なかったんだもんよ。
学校だけじゃなくて塾とかでもね。

先の内容を経験して初めて今の学習が理解できるってこともあるだろうに。

中高一貫というシステム

ただだ。
中高一貫という仕組みで学ぶことが、より良い知識を手に入れる方法なのかって考えてみると、ふとした疑問が湧いてくる。

子どもたちは6カ年計画みたいな長期の計画を意識する訓練を出来ているんだっけ?って話だ。

年度をまたいだ計画って今の日本ではものすごい馴染みがないんだよな。
だって政治家ですら年度別の予算しか計画できてないし、企業でもそうだ。

それが意味することは、今の日本の大人たちは子どもに複数年度での計画を立案することを経験則として教えることが出来ないって事実だ。

いや確かにね。
俺の時代の神奈川みたいにア・テストで事実上の足切りみたいなことを中学2年で経験させるのはどうかとも思うんだよ。

実際に体調を崩してア・テストを受けきれなかったやつもいた。

やつは本来の実力より劣った高校しか受験させてもらえなかったはずだ。

そう考えるとだよ、子ども時代に「受験」というハードルが設けられるってのには一定のリスクが有るって感じもするじゃんか。

たださ。
中高一貫ってシステムで6年間という時間を子どもに与えてだ。

その時間の使い方を大人は伝えられるんか?って話だ。

だって俺たちは仕事の計画を最長でも単年度で組み上げているんだぞ。
その大人がだ。
なんで子どもに「6年で君の生き方を決めなさい」なんてどの口が言えるんだって話になるじゃんか。

いや確かに俺たちも、中長期計画みたいなことは組み上げてはいる。
でもそれってさ、子どもの学習、特に中高生みたいなある程度定型的な学習をする時期に子どもに時間と責任を与えてさせて、その計画の状況を適切に大人がフォローするなんて可能なのか?

難しいなら本来は高校受験というわかりやすいハードルを子どもに「与えて」いくしか無いなんじゃね?
※ア・テストみたいな単年度のは良くないとは思うけれど

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは子どもたちにどんな責任をどういう形で与えていくべきなんだろうか?

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