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テクノロジーが与える未来を考える

あんたはテクノロジーとヒトの接続ってやつについて考えることってあるかい?

一昔前のサイバーパンクもののコンテンツでは、ジャックを物理的に脳に接続してネットとつなげるみたいな描写がそこかしこにあった。
攻殻機動隊なんてのはその代表格だよな。

セキュリティの話とかがあるから、あながち間違いじゃない手段のようにみえるけれど、攻殻機動隊ではそんなの関係なしに無線でゴーストハックされているから、この有線での接続ってのはリアリティを失いつつあるのかもしれない。

で、最近だとスマートメガネだとかスマートコンタクトだとかって感じでまずは視覚をテクノロジーと接続してやろうって動きがあるみたいだ。

今回はこう言うテクノロジーの先にどういう世界があるのかを想像してみる回だ。

まあ、ヒトって生き物が何をしようとしているのか。
ちっと考えてみようぜ。

目は脳組織の一部

なんかで見たんだけれど、目ってのは脳の一部って考え方があるんだそうだ。

それゆえに、視覚に情報を渡すってのは実は脳とテクノロジーを接続しているってことになるってことらしい。

そう考えてみると、テレビが出てきている時点で俺たちの脳はテクノロジーと接続されているってことになる。
テレビって結構おっかない発明だったんだな。

さっきのスマートコンタクトのニュースみたいに、まだAR技術といっても補助的に情報を提供するという程度の話だけれども、これがどんどん精度をあげていくことで、現実に存在するものとの区別がつかないほどの映像が提供されるようになったら、何が起きるんだろうな?

体験型のエンタメの行く末

実際問題、体験型のエンタメってものの価値は上がるのか?下がるのか?

スマートコンタクトによって、視覚的な刺激については、これ以上ないくらいのリアリティをもって映像が提供されることになる。

ぶっちゃけ、モニタという境目がない形でのコンテンツ提供も考えられるわけだから、映画の大スクリーンと比較しても勝負にならないほどのコンテンツが提供できることになる。

さらにメタバースとの組み合わせによって、ヒトのコミュニケーションのあり方も激変するんだろうな。

ただそこにいるだけで、世界中のあらゆる体験を視聴できるわけなんだから、もはやそこにリアルかメタかの意味的境界線が消え去っているって考え方もできそうだ。

リアルとメタが渾然一体となったときのコミュニケーション

実際のところ、ホントにリアルな映像が双方向的に提供されるとしたら、ヒトの娯楽ってどうなっちまうんだろうな?

旅行だとかキャンプだとかの体験を売り物にしている娯楽については、五感全部がテクノロジーで提供されない限りなんとなく生き延びそうな気がするけれども、映画みたいな体験は大部分を視覚に依存した体験だから、なんとなくオワコンになっていく未来が想像出来るよな。

なに?
映画は映画そのものよりも誰かと体験を共有することの意味もでかいだろって?

それは全く反論はない。
ただ、メタバースによって「一緒に体験する」ことすら提供されたらどうだ?

気が合う友人が隣にいたり、好きな相手が隣にいるように「リアルに」見せられたらどうだ?

実際にその姿の先に現実に相手がいることもあるだろう。
でもその存在をシミュレートしたAIがあんたの視覚を刺激しているだけかもしれない。

そもそも、その気が合うやつってのは元々この世界に存在していたのか?

そんな自己境界線が曖昧になるディストピア。
そんな世界が見えてきちまうのは俺だけなのかね?

実のところ、俺たちが今感じているこの世界だって厳密には「現実世界である」ってことを証明するのって結構難しい気がする。
ただ、「現実である」という認識をした方がいろんな活動にとって都合が良いってのはあると思うから、俺自身この自分が知覚しているこの世界を「現実」と思ってはいるわけだけれどさ。

なあ、あんたはどう思う?

テクノロジーが究極にまで発展した世界観で、ヒトはヒトを愛することが出来ると思うかい?

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