見出し画像

「命」の使いみち

あんたにも感情が無条件に動かされてしまう言葉ってのがあったりするかい?

連日の悲惨なニュースを眺めながら、モニターの先で確実にやり取りされているものがある。
「命」だ。

この言葉を見るたびに俺は無性に動揺してしまう。

この常に自分とともにありながらも、その実体を理解できない存在。

戦争のニュースの先でも、感染者のニュースの先にもついてまわる「命」。

そして、日常の食事の中でも俺たちが消費し続けている「命」。

今回は俺の感じ取ってきた「命」という言葉について考える回だ。

まあ、いつもどおり観念的な話になっちまうけれど、付き合ってくれよな。

「命」を感じさせてくれた作品

俺が最初に「命」ってものについて感じた作品って言ったらなんになるんだろう?
ちっと考えてみた。

多分だけれども、宇宙戦艦ヤマトとかブラックジャックとかそのあたりの作品になるんだと思う。

戦争という極限状態で消費されていく命や、命を救う医療現場というストレートな状況で感じられる命。
そう言う良質な作品に恵まれていたような気がする。
そう言う意味でははだしのゲンもそうだね。

でも、ガキンチョの俺は当然その「命」って言葉よりも、作品のエンタメ性に魅了されていたと思う。
波動砲カッケー!
ブラックジャックのメスさばきスゲー!

そんな中ではだしのゲンだけはちっと異質だった気がする。

エンタメ要素がまるで無い。
そこにあるのはただただ悲惨な歴史だけだった。

原爆怖い。
差別怖い。
戦争怖い。

そこに描かれているのは、ホントにエンタメとは真逆の「恐怖」だけだった。

そうなんだよな。
「命」について真正面から考えるとき、ガキンチョの俺は「恐怖」を感じていたんだ。

その時点では俺にとって「命」ってのは
奪われるもの。
失うもの。
壊されるもの。
だったんだよな。

「命」を使う物語

そう言う意味では「命」ってのはガキンチョの俺にとって既得権益だったってことなんだと思う。

必死になって奪われることを拒むべきもの。
それが「命」だった。

でも当然ながら行き当たる疑問にぶつかる。
「なんのために命はあるのか?」って疑問だ。

ワカゾーの俺は社会に出て、何らかの仕事をすることが命の意味だってなんとなく思っていた気がする。
じゃあ、仕事ってなんだよ?って聞かれてもうまく答えることは難しかった気がする。
まあ、今だってうまく答えられる気はしないんだけれどね。

ただ、少なくとも俺に「命は使うもの」って認識を与えてくれた作品がある。
高機動幻想ガンパレードマーチってゲームだ。

今でもゲームアーカイブスで買えるしやってみても損はないと思うよ。
無印PlayStationのゲームだから、流石に画質とかは昔のやつだけれどね。

で、ガンパレードマーチの中ではワリカシ自由に行動することが出来て、その結果として実に様々なことが起きる。

自分のミスで仲間が死んでしまったり、軍歌を歌うことで特攻のような状況に仲間を追いやったり、ひたすら仲間を戦地から遠ざける様に仕向けたり。

自分の行動によって世界が変わっていくことを実感できるゲームだったんだ。

そんなゲームの中で登場するキャラクターがいう。
「誰の許可も要らぬ。我らが決めた。
 世界は、我らの好き勝手により守られよう」

文字通り「命」を使って世界を救う物語だった。

俺たちの「命」の使い方

ガンパレードマーチという作品で「命」は「守るもの」から「使うもの」に感覚が変わった。

じゃあ、何に使うのか?

家族を守るために使う。
自分の楽しみというものを極める。
どこかの誰かの未来のために使う。

そのどれもが正解だし、誰かにとっての不正解でもあり得る。

でも一つだけ揺るがし難い事実がある。

自分の「命」の使い方を決めるのは自分だってことだ。

もちろん、基本的人権だとか自由だとかが認められていない国や地域ってのもある。
そう言う場所では取れる行動にも制限が多いとは思う。

でも、それでもだ。

俺たちの命の使い方は俺たちが握っているって考えるのは大切なことだと思うんだよ。

確かに俺たちヒトには自由意志なんてものは無い。
周辺の状況に反応しているか、全くのランダムで感情を揺り動かされ続けている。

では俺たちの感じていることに意味は無いのか?
否。
断じて否だ。

意味という虚構を作り上げられるのは、今「命」を使うことが出来る俺たちだけなんだから。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどんな意味を作り上げるために「命」を使っていけると思う?

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?