えんとつ町のプペルという夢の物語を振り返る
あんたは夢ってキーワードについて思いを馳せているかい?
この夢ってキーワードは俺たちオッサンにとって鬼門だって話を昨日書いたんだよね。
なんつっても、夢って言葉と挫折って言葉はセットになっているもんだって感覚があるから、どうしても避けて通りがちになるもんだよな。
でもオッサンは夢ってテーマを取り上げた映画もよく見に行く。
って言うか、映画って夢を描き出すためのものって側面もあるもんな。
まあ、どんだけマゾなんだって話かもしれない。
今回は、そんなオッサンが夢の物語であるえんとつ町のプペルを見た後の自分の感覚について記録する回だ。
ネタバレありありで行くから、知らんほうが良いってあんたは今回はスキップしてくれよ。
ちっとオッサンの心の有り様に付き合ってくれよな。
映画えんとつ町のプペルの良かったところ
まず感じたのは絵本のえんとつ町のプペルで俺の中であった不満点がけっこう解消されていたってのがあった。
絵本のえんとつ町のプペルで俺が不満に思っていたところがあるんだよ。
一番大きいのが絵本だとプペルとルビッチが仲違いする原因が、プペルと付き合うなって言う同調圧力にルビッチが負けてしまう事になってしまっていたってところだ。
最も感情移入をされるであろうキャラクターであるルビッチが一度同調圧力に屈する経験を経てしまうのは、物語のテーマが信念を貫くことにあるんだから、どうにかならないのか?ってのが俺の不満だったんだよね。
で、映画えんとつ町のプペルではその点がうまいことクリアされていると思ったんだよ。
映画ではプペルがルビッチの「星を見る」って夢をバラしちまうっていうプペルの失策がきちんと描かれている。
しかも、その失策そものものプペルがルビッチを思ってのことだってのが痛いほどわかる描写になっていたのが良かった。
ヒトを思いやるって行為がヒトを傷つけてしまう。
そんなやるせない現実が俺たちの心を打つんだと思ったわけだ。
映像演出の面でも今までの様々な作品の演出の良いところを徹底的にオマージュしているように思えた。
これは非難するべきところじゃなくて、徹底的に評価するべきポイントだと思うんだよね。
序盤の疾走シーンなんて、ルパン三世は入っているわ(歯車の上を疾走)、インディー・ジョーンズが入っているわ(大玉が転がってくる)。
こう言うのって基本を抑えてなんぼだと思うんだよね。
その意味で映画えんとつ町のプペルはキッチリとアニメの演出の基本を抑えていたと思うんだよ。
あとはアントニオ。
アントニオに夢を諦めた一般人の役割を背負わせたのはとても良かった。
アントニオに感情移入するヒトって割合的には多いはずだもんな。
なんでって?
そりゃあ、夢を追いかけ続けているヒトと、夢を諦めて日常をこなすヒトの割合を考えれば必然的だろ?
この物語は夢を貫き通すってことの大切さを描き出す物語だけれども、その夢という光を描き出すためには夢を諦めたという闇というキャンバスがどうしたって必要だ。
それを大人たちと子どもたちという対比ではなくて、同じ子どもたちの中でコントラストを作り出すって構造は、感情移入って意味から考えてもどうしても必要な演出だったんだと思うんだ。
そうすることで、初めて同じ世界観の中での対立ってのが浮き彫りになる。
これが大人と子どもって構造にしちゃうと、どうしても権力VS非権力って構造になっちゃうので、話の軸が「夢」から「力」に移っちゃうからね。
えんとつ町のプペルって物語が反権力の物語ではなくて、夢を追い続けることの素晴らしさを描く作品である以上は、アントニオというキャラクターは絶対に描く必要のある要素だったんだろうね。
映画えんとつ町のプペルの腑に落ちなかったところ
という感じで、エンタメ作品としてキッチリと成立させてくるところは西野亮廣さんのさすがってところだと思った。
ところがだよ。
この映画を見た後の俺の感想は、ぶっちゃけて言うと「不満」そのものだったんだ。
その不満についても分析を進めていきたいんだけれど、ちっと1回に読んでもらうの文章量だと書ききれない感じがするので、それはまた次回に回させてもらうとするよ。
さて、あんたはどう思う?
この映画えんとつ町のプペルという作品は俺たちの世界観を変える力を持っていると思うかい?
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