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自分の世界観と仕事で得られる満足

あんたのところの若い奴らは、自分の仕事がなんの幸せにつながっているか想像できている感じかい?

実際、自分の仕事がなんのために行われているのかを想像しようというきっかけすら無いのが現状だと思うんだよな。

でも、自分の仕事の意味も理解できない状態ってのは、あきらかに不自然だし、仕事に対する満足度も上がらない。

じゃあ、どうすれば「自分の仕事の価値」なんてものに思いをはせるきっかけを共有できるんだろうな?

今回は、その想像するきっかけについて考えてみる回だ。

ちっとばっかし、観念的な話かもしれないが一緒にグルグル考えてみようぜ。

自分の仕事の意義をわかる幸せ

まず、大前提として、俺はこう考えている。

自分の仕事が「誰を」「どうやって」幸せにしているのかを理解するってことは、仕事をする人にとっての満足度に直結する。

何でもそうだけれど、俺たちは人との関わりの中で生きている。だから褒められると嬉しいし、叱られると悲しい。

そういう直接的なコミュニケーションもさることながら、仕事の結果として幸せになる人を想像出来ると、仕事の満足度は飛躍的に大きくなる。

あんたの仕事が何にせよ、あんたがコミュニケーションを直接するひとの何倍もの人が関わることが多いと思う。

あんたが、居酒屋の店長なら、居酒屋に来てくれるお客が愚痴をこぼし合って少しでもストレス解消をしてもらえたのなら、そのストレスを解消してくれた人がもたらす仕事の質を上げることができて、その結果、また多くの人の幸せにつながる。

あんたが、俺と同じシステム屋なら、システムを使ってくれる何千人って人が今まで5分かかっていた仕事を3分で出来るようにすることだってっ出来る。

そんなふうに、俺達の仕事は俺たちが直接コミュニケーションしない人たちに何らかの価値を提供しているってことだよな。

その価値を実感できたとき、俺たちは自分の存在価値を確信出来る。

それは、俺たちが幸せになる最も重要な要素だと俺は思うんだよね。

想像するための世界観

とは言え、自分と直接コミュニケーションしない人たちのことを想像するってのは結構難しい。

何しろあったこともないような人のことだからな。

この難しさを表す具体例にこんなのがある。

東大生に「葛藤という単語を使って4つの文章を作りなさい」って問題を出したところ、こんな答えが返ってきたそうだ。

「私は東大文Iに進学したいのに、親に理IIIに行けと言われて葛藤が生じた」
「ダイエット中、母親からメールがあり『今日、ハンバーグとカレーでどっちがいい?』と言われて葛藤した」
「地球に宇宙人が攻めて来て、地球の終わりに何をすべきか葛藤した」

これを見てあんたはどう思う?

自分自身の受験やダイエットの話と突然の地球滅亡。

日本で一番頭がいい大学の学生ですら、自分の半径3メートル以内と、物語の中でだけ現れる地球滅亡しか想像できていないってわけだ。

人が有機的に関係しあって、複雑に絡み合いながら構築される世界観ってやつがまったくない。そのため、直接の体験か物語の体験でしか文章を想像できないわけだ。

じゃあ、その世界観ってやつはどうやって手に入れればよいのか?

ズバリ、学生の時から生産者として消費者を想像することに尽きる。そう思わないか?

自分の行動が誰のニーズを満たすための行動なのか?

そのことに思いをはせる訓練が圧倒的に足りていないってわけだな。

俺たちロスジェネの親の世代、つまり団塊の世代と言われる世代までは、いい学校を出て、いい就職先に就職し、幸せな家庭を築くなんていうステレオタイプな幸せ像が現実に存在し得た。

それは大量消費に支えられた大量生産、つまり大量の単純作業によって世の中が回っていた時代の話だ。

その辺のことはこっちの記事も合わせて見てみてくれよな。

だが、時代は変わって、誰がどんなニーズを持っているのかを俺たちは個人レベルで想像する必要に迫られている。

逆に言えば、誰がどんなニーズを持っているかを掴むことさえできれば、そこに価値を提供することで俺たちは生き残っていける

ポイントは、その価値の提供には必ずしも学歴や経験が必要ってわけじゃないってことだ。

だから、俺たちはいつだって「誰かのニーズ」に応えることが出来るし、今の若い衆も学生も、誰でも「誰かのニーズ」にアプローチすることが出来る。

インターネットがあるからな。

俺たちはどこかの誰かの幸せの形を想像しながら、自分の世界観を広げていける。

そして広がった世界観はあんたの仕事に必ず満足を与えてくれるはずだ。

あんたはどうだい?

今、この瞬間もあんたの世界は広がっていけるんだぜ?

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