「オバサック」という言葉の強さと怖さ

あんたにも譲れないものってあるかい?

改めて自分に「お前の譲れないものはなんだ?」って問われた時に即答できるやつってレアだと思う。
俺も即答できないし。

ただ、いわゆるとんがっているヒトにはこの問に即答出来るヒトが多いような気がするんだけれど、どうだろう?

例えば西野亮廣さんにとっては「エンタメ」だろうし、堀江貴文さんなら「動き続けること」なんだと思う。
堀江貴文さんは譲れないものがあると鼻を折られるって言ってるけどね。

そう言う行動原理のコアな部分を持っているからこそ、今の活躍があるんだと思うしね。

ただ、このコアな部分ってもしかしたら諸刃の剣になるかもしれないって思うことがあったんだ。

今回はこの自分の中のコアなものが自分自身を傷つけてしまう可能性について考えてみる回だ。

ちょっとオッサンの思考整理に付き合ってくれよな。

自分の「コア」が作り上げるもの

自分の中に譲れないものって多分言語化出来ていないだけで、誰でもあるものだと思うんだよね。

何?言語化出来てないのはオマイだけだって?
う、それはそうかも知んないけど、言いたいのはこの「コア」が作り上げるものってのは誰の中でもあるはずだってことね。

ってなると、その「コア」が作り上げるものってやつは見極めておいたほうが良い気がするよね。

全てのヒトの行動の理由を紐解いていくとたどり着くものが「コア」だとすると、それが作り上げるものってのがうすボンヤリと見えてきそうだ。

多分「コア」は「信念」だとか「理念」って言葉になることもあるものだと思うんだ。
とするれば、「コア」が高い確率で作り上げるものがある。
そいつは「正義」だ。

「正義」が俺たちにさせてしまうこと

今年に入ってからこっち、コロナで他のニュースが吹っ飛んじまっている感じはあるけれど、この「正義」ってやつの危うさを感じさせるニュースがあったよな。

木村花さんのあの悲劇のニュースだ。
前にnoteで書かせてもらったんだよね。

このnoteでは「悪口」を発信してしまう理由の一つに「反応」ってのがあるって書いてみている。

そして、この「反応」と「正義」ってのはすごブル相性がよろしくない。
いや、捉え方によっては相性が良すぎるってことなのかもしれないけれど。

「正義」が「コア」と共にある以上、「反応」で「正義」を表現してしまうと、どうしても相手に伝わらない「悪口」になりかねないんだよな。

このことに気づかせてくれたのが西野亮廣さんのオンラインサロンメンバーのお一方の発信だった。

西野亮廣さんはサロンメンバーが読める記事を毎日投稿してくれている。
その中で「オバサック」というキーワードが出てきている。

オバサックはこの動画で有名になっているよね。

この動画を俺は腹を抱えて笑っていたんだけれども、そのサロンメンバーの方は、なぜ軽蔑の伴う単語に高確率で「女性」が紐付けられているんだろうって悲しんでいた。

ちょっと、俺としては結構デカめの衝撃を受けたんだよね。

オッサン、ジジイについてはなんつーんだろう?「軽蔑」のキーワードにつながっていることってあんまりないくない?

オッサン、ジジイのキーワードはそりゃ足が臭いだの加齢臭だのってキーワードにつながることはあるかもしんないけれど、「軽蔑」ってよりは「物理的な性質」くらいの結びつきで、オッサンの行動やジジイの行動そのものを「軽蔑」するってあんまり無い気がするんだよ。

何?ダジャレがきついとか、あるだろうって?
それも「軽蔑」ってよりは「愛すべき大馬鹿野郎」ってトーンじゃないか?

ところがオバサックについては、その「愛すべき」って要素が確かに全く無いって思ったんだよな。

そこでふと考える。
なんで普段からサロンメンバーに対して「一人も置いていかない」と宣言している西野亮廣さんは、結構デカめの範囲である中高年の女性属性のヒトを切り捨てるような「オバサック」というキーワードを使ったのか?

実際、上の動画も「オバサック」というキーワードが無くても「思っとけ」だけで成立はするものだと思う。
それでも「オバサック」をチョイスした理由ってやつだ。

それが西野亮廣さんの「コア」であるエンタメだったんだと思うんだよ。

この「オバサック」という言葉は非常にキャッチーで西野亮廣さんがいいたいことそのものを誰もが想像できる生きたワードだと思う。
そして、西野亮廣さんはそのワードのパワーをしっかり理解していたと思うんだ。

その意味では「オバサック」は「反応」だけで生み出されているわけじゃないとは思う。
それでもエンタメという「正義」は一人の女性に悲しみを与えてしまった。

完璧な表現なんてありえない。
それでも俺たちはSNSによって誰もが表現者になっている時代だ。

俺たちの言葉が誰かを傷つけてしまう可能性。
そのために自分の「コア」が何であるのか?
その「コア」は誰を傷つけてしまうのか?

改めて考えてみる価値はあると思うんだよな。
言葉狩りをするべきだっていうんじゃなくて、自分が誰を傷つけてしまう可能性を持っているのかってことをさ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、俺たち自身が持っている刃を自覚できると思うかい?

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