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言葉を発する影響

あんたは絶望的な状況ってのを経験したことがあるかい?

たぶん今この記事を読んでくれているってことは、その絶望的な状況をなんとかしのいでここに居るってことだよな。

絶望って言葉はものすごく一般的な言葉でありながら、おいそれと使って良い言葉でも無いように思うんだよね。

なんつっても言葉の持つ呪力っていうか影響力みたいなものがでっかすぎる。

自分のはなった絶望と言う言葉が周りのヒトの活力を奪うだけじゃなくて、自分自身の活力も奪っていく。
まさに言霊ってやつだな。

夢をかなえるゾウでは、絶望的な状況のときこそ「運がいい」って言えと言っているけれど、その言葉を口にすることだけでも心がしんどいって感じるってのは普通にあり得る状況だと思うんだよな。

今回は言葉と言う表現が俺たちに与えている影響ってのを眺め直してみる回だ。

ちっと俺たちの身の回りにある言葉を眺め直してみようぜ。


「俺はダメだな」って口癖

恥ずかしいことに、俺の口癖の一つに「俺はダメだな」ってのがあるんだ。

仕事でうまく行かなかった時、家族にうまく伝えられなかった時、なんならこのnoteを書こうとして書き出すことがなかなか出来なかった時。

気がつくと俺は「俺はダメだな」って呟いている気がする。

もちろん、その言葉を誰かとの会話の中で口にすることはない。
単純に独り言として誰に言うでもなく口を伝って出てくる言葉なんだ。

いや、自分でも分かっているつもりなわけよ。
この言葉が俺が俺をスキな状態から遠ざけているってことをね。

でも、そう言うネガティブな側面だけじゃなくて、「自分にはまだ変えられるところが残っている」って言う要素もこの独り言には含まれているってのもある気がしているんだよな。

なんつーんだ?無知の知ってやつか?

息子の学芸会

そんなふうに基本的には自分個人が影響範囲にある言葉ってのがあんたにもあると思う。

それと同時にあんたの言葉があんたの周りのヒトに影響を及ぼすことも普通にあるだろうし、逆にあんたが影響を受けることもあるだろう。

ヒトという生き物が社会というシステムで自らの存在をこの生存競争の中で生き抜いてきたってのが事実としてある以上は、このお互いの言葉で影響を及ぼし合うってのは必然のことなんだろうな。

それだからこそヒトが自分の置かれている状況について気を配るってのは俺たちが普段考えているよりもずっとデカい要素なのかもしれないな。

なんとなく、そんなことを思ったキッカケは息子の小学校6年生の時の学芸会の出し物を見に行ったことでもらったんだ。

たぶんオリジナルのシナリオだと思うんだけれど、息子たちの演技は稚拙ながらも要所要所できちんと俺の感情を動かしてくれたように思ったんだよ。

作品のテーマは「生きる」。

12年の年月を過ごしてきた子どもたちの表現が一つの形になったって俺には感じられたんだ。

明日も今日と同じように生きていることは出来ない。
そんなシンプルなメッセージを子どもたちはでっかい声で訴えかけてきてくれていた。

絶望に流されて自暴自棄になり、享楽的に生きることを否定しつつも、「なぜそれがいけないのか?」という疑問には答えをあえて出していないってシナリオだったんだ。

まさに子どもたちの言葉が子どもたち自身に影響を及ぼしているように見えたんだよな。

俺たちの言葉の影響力

でさ。
俺たちもなんかいろんなことを発信しているわけじゃんか。

俺の場合だと政治がどうのこうのだとか、子育てがどうのこうのだとか、仕事がどうのこうのだとか、あの作品から受け取れるのはなんだとか、思いつくままに言葉にして言っているわけだ。

俺の言葉を読んでくれたあんたの中に何かが残ってくれれば御の字だけれども、基本的に俺には俺の言葉があんたにどんな影響を与えているのかを確かめるすべは無い。

それ故に、俺の言葉の存在意義みたいなものを客観的に立証することが出来ないんだよな。

ダッシュボードとかで「スキ」をもらえた数とかは追っかけられるかもだけれど、少なくとも俺の言葉があんたの中にどんな化学反応をもたらしているのかなんてのは、その数字からは読み取ることは出来ない。

Google Analyticsとかでアクセス解析できればもうちっと違う何かが見えてくるかもしれないけれどね。

それすらも出来ないってのが現実だから、俺たちは目隠しをしながら暗闇の中をどっかに向けて突き進んでいるようなもんなんだよな。

俺の言葉に言霊が宿っているか。
俺にはわからないんだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの言葉はあの学芸会の子どもたちの発した言葉のような力を持つためには何が出来るんだろうな?

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