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「感情」をあわせる技術

あんたは自分の成長ってやつについて思いを馳せることがあるかい?

実に多くの事柄が俺たちの中を通り過ぎては、その結果として俺や俺の周りのヒトに多大な影響を及ぼしながら時は過ぎていく。

しかもその事柄たちが、俺たちの中に及ぼす影響ってやつを俺たちが認識できるのは、いつだってその事柄が起きたあとに相当の時間が経ってからってのが厄介極まりない。

せめて、俺の周りにいる若者や家族には、その経験から受けた影響ってやつを伝えることで、幸せに近づいてほしいって思うのがヒトの常ってやつじゃんか。

ところが、改めて考えてみると、俺は俺自身の経験から「どうやって成長してきたのか」なんてことを言語化したことがない。

今回は、俺が今まで生きてきた中で「成長した」って思えた瞬間を振り返ってみる回だ。

ちっと、自分の成長ってのを振り返る方法を模索してみようぜ。

怒りを制御出来なかったガキンチョ

自分自身の記憶は曖昧なところがあるんだけれども、俺はどうやら自分の中の怒りってのを制御することが苦手なヒトだったんだと思う。

小学校に入る前の保育園の通信簿的なものには「力の加減ができません」って評価が載ってたのをおぼろげながら覚えている。

固定されていないジャングルジムをひっくり返して遊んでいた記憶もあるし、単純に体力を持て余していたってのがあるんだろう。
ただ、それはそれとして、単純に自分自身の負の感情ってのを制御しようって意識そのものが無かった気がする。

そもそも感情に伴う行動を抑え込むよりも、感情をそのままに行動できる「力」を求めていたって感じがする。

それだけ感じるままに行動するってのが俺にとって「自然」だったんだと思う。

感情を押し殺すガキンチョ

ところが、当然そんなむき出しの刃物みたいな行動を続けられるわけもない。

周りの大人は荒れまくる俺を見て、その行動を咎める。
当たり前だよな。

元来が「良い子」でありたいって感覚を抱えながら過ごすようなガキンチョだったので、徐々に俺はこう思い始める。

「感情を感じちゃだめだ」ってね。

そう思った俺は自分自身に暗示をかけ始める。自分は感情を感じない。ってね。
結構長いことこの暗示を続けていた気がする。
なんなら今もかけ続けているかもしれない。

でも当然、そんなことをしたらどこかに歪みができちまうのが普通だと思う。

俺にとって救いだったのが音楽だった。

俺の青春時代は尾崎豊にBOWIEにTMNと若者の感情を変わりに吐露してくれるアーティストには事欠かなかった。

俺が実際に盗んだバイクで走り出す代わりに走り出してくれたし、ヒトの不幸を願う代わりに願ってくれたし、本当の悲しみを俺の代わりに知ってくれていた。

そう、俺には代弁者がキッチリ世界の中にいてくれたんだよ。

いや、逆だな。
俺はそれらの思いを自分の中でトレースすることで、俺のオリジナルの感情じゃなくて、既製品の感情で制御可能な形で代替していたんだ。

「大人になる」ということ

こうして言語化してみると、俺にとって「大人になる」ってことの輪郭がおぼろげに見えてくる。

つまり俺にとっては大人というのは、周りの感情と自分の感情をあわせる技術を身に着けたヒトってことなんだろう。

音楽という既製品の感情に自分の感情をあわせたり、物語という既製品の感情に自分の感情をあわせたり、友人たちの感情という自分以外の感情に自分の感情をあわせたりするってことだ。

そう考えると、音楽や物語を子どもの頃に味わうってのは、そう言う感情をトレースする練習って意味合いがあるってことになるのかもしれない。

ガキンチョの俺が聞いたら「自分の感情を殺すなんて!!」って反発するかもしれない。
でもこれは感情を殺すんじゃなくて、感情を合わせるって行為なんだよな。

そうすることで自分の中に自然に湧き上がってくる感情よりも周りの感情ってのを大事にできるって感じることが出来る。

なあ、あんたはどう思う?

あんたにとって「大人になる」ってどんなことだい?

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