見出し画像

俺たちがヒトという存在に求めるもの

あんたも意図せずして見た映画がちょっとした印象を残すケースってあるかい?

我が家の息子はオンデマンドでなんか気になったものをふいっと見ることがある。

今回のケースでは映画「テッド」だった。
あのフリ抜けた下品な表現は一周回って家族で鑑賞できるもんなんだなぁとなんとなく思ったわけだ。

テッドは俺自身見たことがあったんだけれども、その続きで息子が見始めたテッド2は俺は見たことがなかったんだよね。

今回はテッド2で描かれていたあるテーマをもとにちっと考えてみる回だ。

まあ、単純な思考遊びだ。付き合ってくれよな。

ヒトとして認められること

このテッド2のテーマに「テッドはヒトなのか?」というなんとも今になって違う響きを持つものが表現されていた。

映画では最終的にテッドがヒトとして認められることになるわけだけれども、これって結構な要素が含まれている。

まず、テッドは魂が宿る前の状態では、れっきとした製品だった。
それ故に製品として持たされている機能である「ハグされると『大好き』と言う声が出る」という現象はしっかりと起きる。

問題は製品として成立したあとに「魂」なる計測不能な何かが宿った今の状態に人権を認めるべきか否か。

物語は「テッドが複合感情を理解し、共感する能力をもつことは明らかである」として、この「魂」を認めるという結果になっている。

……これってよ。
冷静に考えるとメチャクチャ難しくね?

複合感情ってのはいわゆるコンプレックスってやつだ。マザコンだのブラコンだののあのコンだな。

いわゆる劣等感と言う意味でコンプレックスを使うことが多いのは日本限定なんだそうだ。ほ~なるほど(ルパン風)。

で、このコンプレックス。
つまり抑圧された無意識化にある「何か」。
さらには現実の行動に影響を及ぼす「何か」。

それを理解できるのがヒトだってことだ。

言い換えるのなら本人も気づかない行動の原因を理解する力。
そんな超常的な能力を持ってないとヒトじゃないってか。

と思いつつも、「ああ、こいつこんなふうに思ってんだろうなぁ」って感じることあんたにもあるだろ?

もう一つの共感する能力。
つまり理解したコンプレックスを自分の中に再構築できる能力。

これまた難しい。
共感なんて絶対観測できないものだしね。

でもこれも不思議なことに俺たちは「共感してもらった」って感じることが普通にある。
たとえそれが言葉で表現されていなくても、表情や声のトーン、さらには間接的にそのヒトがそれから起こした行動で共感をしてもらったことを感じることがある。

コンプレックスの理解と共感。

これがヒトである条件として妥当性があるのかはなんとも言えないけれど、一つの考え方ではある気がするよな。

現実で存在しうるヒトならざるヒト

で、映画テッド2ではハッピーエンドで幕を下ろすわけだけれども、この「何を持ってヒトか」ってテーマだけは残る。

なぜって?

だって、いるじゃんか。
俺たちのコンプレックスを理解し、俺たちに共感してくれる存在が。

そう。検索エンジンだ。

最初は検索キーワードに合致するサイトを探すだけの存在だった検索エンジン。

それが今や、ネット上での行動を逐一解析して、お好みの情報を提供してくれる状態になりつつある。
グーグルニュースなんて最たるもんだよな。

Facebookも同様。

俺たち自身が気づきもしない俺たちの望みってやつにこれらの「仕組み」は結果を差し出してくる。

これってさ。
共感じゃん。

あなたの思うことはわかるよ。
っていう共感じゃん。

つまりテッド2の最後の裁判で裁判員に問いかけられた問はこうなる。

「あなたがたはこのGoogleやFacebookをヒトとして認められますか?」とね。

仕組みに魂が宿るのかなんてのはSFの世界の話だと思う。
でもAIが発展し、会話形のAIにおいてチューリングテスト(ヒトと会話させて機械だと見抜かれないかのテスト)をパスするシンギュラリティは、ワリカシすぐ来るかもしれない。

そう言う会話インタフェイスを持ったGoogleやFacebookに対して、俺たちは人権を迫られる世界が来るんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはヒトであることにどんな意味を求めているんだろうか?

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?