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データと正義と違和感と主張

あんたは日々の生活の中で多くの人種のヒトたちがいるってのが自然に感じるようになっているかい?

コンビニに行けば普通に外国籍のヒトなんだろうなぁってヒトが一生懸命働いてくれているし、飲食店でも同じ様に多くの日本人っぽくないヒトが一生懸命働いてくれている。

経済の側面から言えば、いわゆるアルバイトのような形での定型化された労働をするために外国からの労働力を導入していくってのは、労働集約的な産業構造を作り上げてしまうって意味でまずいと思うんだけれども、当然のように高度な技術力を抱えながら日本で働いてくれている外国人のヒトも多くいる。

現実的に、俺の周りにも技術者として一定の価値を提供し続けてくれている外国の若者はいる。

今回はとある動画を見た時に、人種について考える切っ掛けをもらったので、そのことについて考えてみる回だ。

ちっと、ヒトって生き物について考えてみようぜ。

アメリカでのアジア人の魅力

いつも通りなんとなくネットをうろついていたら、こんな動画を見ることが出来たんだよね。

KYOUさんは日本に大きな興味を持ちながらいろんなことにリアクションしてくれる動画投稿者だ。

そんな彼が、とあるアメリカでの授業風景の動画をみて憤慨していた。

ざっくり言えば、この授業で語られていたのはデートマッチングアプリみたいな市場のデータを調べると、アジア人に対するパートナーとしての魅力は相対的に低いって話を伝えていたっぽい。

いや、っぽいってのは、授業の全容を見れたわけじゃないってのと、この講師のヒトが語っているデータから読み取れる事実をどう解釈したってのがうまく理解できなかったからなんだよね。

どうやってはじき出したのかがよくわからないんだけれど、同じようなイケメンのアジア人と白人を並べると、年収ベースで2500万円アジア人は稼がないと同じ姓的な魅力を獲得できないってことを語っていることが動画から見て取れる。

はは~ん、そう言う感じなのねってのはわかった上で、よくわからなかったのがそのデータを授業として若者に伝えることでどんな主義主張をしようとしているのかってのがわからなかったんだよね。

もしか、アジア人に魅力を感じているヒトがいたとしたら、「あなたは平均とは違う感性をもってますよ~」って話が伝えたかったんだろうか?

多民族国家アメリカでの正義

きっとだけれども、講師として語る様なことができる立場にいるヒトなわけだから、感情だとか感性だとかについて、極力客観性を保つって価値観を持っているんじゃないかとは思う。

その客観性という意味でヒトはデータを使うってのは常套手段だ。
そのデータがアジア人に対する性的パートナーとしての魅力が白人のそれに比べて劣っているって見えるデータが見えてきた。

それが今のアメリカでの「人類皆平等」という建前に相反するものだった。

つまり日常的に感じている「正義」とデータが齟齬を起こしていた。
単純にその齟齬の存在を示すことで「人類皆平等」なんて「正義」はまやかしなんだよって伝えたかったんだろうか?

しかもその齟齬の源泉が「潜在意識」なんて言うヒトにはコントロールすることがそもそも出来ないものにあるって言っているんだよね。

シニカルな存在であることの魅力

シンプルにこの講師のヒトの話を受け取ると、「俺たちは潜在的に他者を受け入れられないんだから、その現実を直視しろ」って言っているように思える。

そんな事言われたらさ。
誰もがこう思うと思うんだ。
「ならどうしろってんだ」ってさ。

アメリカのような多民族国家だけじゃなく、俺たち日本で暮らしている多くのヒトたちも等しく「他者」として生きている。

ぶっちゃけ、他者であることには人種とか関係なくて、究極的には家族であっても「他者」だ。

講師のヒトがデート市場という世界観で、人種という切り口をたまたま取り上げただけで、それが「学歴」だったり「宗教」だったり「住所」だったりと実に多様な切り口が存在する。

どの切り口で分析することも意味はあるとは思うけれど、その結論が「諦めろ」であって良いはずがない。

でもこの講師のヒトは「潜在意識では」という言葉を使った。
表層の意識や理論を超えてヒトは他者を受け入れないと言っているに等しい。
これは「諦めろ」とイコールの言葉だよな。

ヒトの探究心を満たすための学問が「諦め」というゴールに向かうためのものだってするのは、幸せの総量を増やす考え方じゃないと思うのは俺だけなのかな?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは学問を諦めるために使うのか?
もがくために使うのか?

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