敵と課題
あんたにも世の中に提供している価値ってやつがあるじゃんか?
あるヒトはネイルサロンを経営して手先の美しさって価値を提供しているし、あるヒトは飲食店で特別な場という価値を提供している。
そうかと思えば、俺のようなシステム屋は仕組みというものでヒトが幸せになるための価値ってのを提供しているし、市役所の役人さんたちは文字通り公僕として世の中の幸せってものを直接的に提供し続けている。
世の中で不要なヒトなんてのは存在し得ない。
そう思って俺たちは日々を過ごしているんだよな。
でね?
そこで改めて考えるんだよ。
誰かの邪魔をする価値ってのがこの世の中には存在しているって事実をさ。
今回はヒトがヒトの足を引っ張るってことについて考えてみる回だ。
幸せって言葉について、ちっと一緒に考えてみようや。
ヒトは誰かと協力する力で生き残った
まず、大前提としてヒトって生き物がどうやってこの地球で生き残ってきたのかって話だ。
ヒトという生き物、正確に言えばホモサピエンスってことになるが、俺たちがどうして地球上でこんなに生きのびてこられたのか?
それはひとえに「誰かと協力するのがものすごく得意だったから」ってことに尽きる。
俺のnoteをずっと読んでくれているあんたには耳タコだとは思うけれども、ヒトが生き残ってこれたのはこの協力するって特殊能力によるものだったんだよな。
何?協力の何が特殊能力だって?
ヒトって生き物は宗教とか貨幣とか国とか言う物理的な事実を伴わないなにかによって協力するって特殊能力を持っているんだぜ?
他の動物には神も貨幣も国も想像できなかった。
その上で俺たちヒトという生き物はそれらを想像して、その想像上の価値をみんなで信じることで協力する力を得たってわけだ。
協力によって生き残ってきたヒトがヒトの足を引っ張るって意味
じゃあ、俺たちはその「誰かと協力する能力」ってやつをかなぐり捨てて誰かを否定しているんだろうか?
おそらくそれはYESでありNOってやつだ。
俺たちは協力し合うことで守ろうとしているものがある。
それが協力し合う仲間だ。
仲間ってのは素晴らしい響きを持った言葉だよな。
なにしろ、自分がひとりじゃないって思えることは何よりも幸せへつながる道を具体化しているように思えるもんな。
ところがだよ。
この仲間ってのは「なにか同じ目的に向かっている集団」ってことだと思うんだけれど、その同じ目的ってのが曲者だ。
同じ目的が誰か他の「仲間」の幸せに向かっているときは良い。
でも、それはふとしたきっかけで別の「仲間」との対立につながっちまう。
日本と韓国の関係性なんて、それを象徴するようじゃないか。
一人ひとりの個性から考えれば、否定をするような要素はほとんどない。
あんたも個人的に許せない韓国人なんて思いつかないだろ?
文在寅大統領がどんだけ日本に「そりゃおかしいだろ」って政策を打ち出してきたとしても、文在寅さんという個人に対して俺としては何かを否定できるような情報を持ち合わせていない。
そもそも知らないんだ。
文在寅さんという個人についての情報を。
このことが何を示しているのか?
きっと、俺たちが「仲間」であるためには「敵」が必要ってことなんじゃないか?
俺たちは一致団結するために「敵」を必要としている。
共通の「敵」っていう虚構は何よりも俺たちの団結を促すもんだしな。
でもさ、この「敵」ってやつをなんとかしようってして、生まれた悲劇で歴史の教科書は満杯になっているってことも俺たちが知っていることだ。
だとしたらどうすれば良いのか?
多分だけれども、俺たちが見つけるべきなのは「敵」じゃなくて「課題」ってことなんだろう。
2020年の変化の年は俺たちが抱えているいくつもの「課題」を顕在化させた。
そのことによって、俺たちはままならない状況に追い込まれているってのも事実だと思う。
でもさ、「敵」じゃなくて「課題」に目を向けられるきっかけを俺たちは手に入れかけているんじゃないかと思うんだよ。
そのきっかけをどう活かせるのか?
それが今の俺たちに求められているってことなのかもな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは課題を手にすることで敵を手放すことが出来ると思うかい?
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