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時代の変化と俺たちの変化

複職の時代って言葉がある。あんたも聞いたことがあるかい?

団塊の世代と呼ばれる世代が作り上げてきた高度成長期という時代。そこで作り上げられた「一億総中流」「寄らば大樹の陰」という思想があった。
だが、時代は進み、企業の成長は止まり、分厚い中流層は無残にも破壊されてしまった。

一億総中流の意識はどこから来るのか?

それは高度成長期と深い関わりがある。
高度成長期ってのは、何によって生み出されたのか?それを考えることでその関わりに思いを馳せることが出来ると俺は思う。

どういうことかって?

つまりだ。高度成長期ってのはその名の通り成長し続ける時代ってやつだ。

成長するってことは事業が成功しているってことになる。しかもその時代を生きた殆どの事業がだ。

物を作れば売れる。そこにはものづくりの工夫ではなく、大量にあった需要にひたすらに答えることが事業の求められることだったってこった。

大量にあった需要ってのはどこにあったのか?

それもその時代を生きた人々の中にあった。
そのがむしゃらに働き続けなければならなかった時代。逆に言えばがむしゃらに働いていればよかった時代。

がむしゃらに働くためには目標が必要だった。

だが、その目標を個々人で考えるには時間的な余裕もなかったし、その目標ってやつに疑問を差し挟めるほど人々のコミュニケーションってのが複雑ではなかった。
自分の人生の目標をお隣さんと語り合うわけにもいかないからな。
となると、人々はテレビなどのマスメディアの提供する成功像ってやつを自然と目指した

三種の神器としてテレビ、冷蔵庫、洗濯機が挙げられれば、人々はこぞってその製品を買い求めた。

そしてその製品の善し悪しを決めるのも結局は人々が手にできる情報の中で判断するしか無い。
結果、マスメディアの情報をもとに判断することになる。

こうなると、マスメディアの数は限られているから、その「良い製品」の像が非常に限定されたものになっていく

その限定された「良い製品」を大量に作る。これが事業の成功につながる唯一の道だったと言っていい。

結果として企業は大量生産を繰り返し、そこには大量の単純労働が発生する。大量の単純労働は多くのがむしゃら社員によって下支えされ、結果として一億総中流という時代が出来上がったというわけだ。

この時代では、大企業はほとんど潰れることもなく、どんどん成長する。だからこそ寄らば大樹の陰という思想につながる。

働き続けてさえいれば、なんとかなる。それがスキルに裏打ちされた仕事出なかったとしてもだ。

だが、時代は流れ、現在。

一億総中流の幻想はものの見事に打ち砕かれている。

政府の景気対策のまずさもあるだろうが、その本質は一億総中流の時代を生み出した時代背景と現代の背景の決定的な違いにあると俺は思うんだ。

それはなにか?

インターネットだ。

インターネットにより、人生の成功像ってのが複雑化していっている。
昔のように大型テレビがあり、大きなリビングで家族団らんなんてステレオタイプな成功像では俺たち現代に生きるものは納得ができないようになってしまっている。

趣味、生活スタイル、仕事スタイルなどなど。人生のあらゆる時間に対する「自分なりの幸せ」っていうやつがあるってことを、インターネットという知恵の実は俺たちに知らせてしまった。

インターネットは、文字通りアダムとエヴァが口にしてしまった禁断の知恵の実そのものだな。

知恵の実によって、俺たちの目標ってやつは凄まじい勢いで細分化されてしまった。もう、みんなで同じ状態を目指すことは不可能に近い。

その結果として、ニーズが細分化され、大量生産という単純労働の仕事量が圧倒的に減っていく
そして、単純労働の単価は下がっていき、工夫をこらした労働の結果を得ている人たちの単価は上がっていく

つまりは格差社会の出来上がりってスンポーだ。

この時代の変化をもとに戻すことは出来ない。工夫しない仕事は淘汰されていく時代に俺たちはついていくしか無いわけだ。
知恵の実を口にしたアダムとエヴァはエデンの園には戻ることが出来ないのだから

ではどうするのか?

俺たちは自らの価値を高めていくしか無い
昔は企業が残業代を払って経験を積ませてくれたが、今は「働き方改革」の名のもと、残業を重ねて経験を積み上げることも許されない。

会社が経験値を授けてくれないのなら、自分で仕事を作り出すしか無い

結果としての複業の時代の到来ってわけだ。

俺たちはそういう時代の変わり目に立ち会っている。

いろいろな挑戦が俺たちがこの時代を生き残るための唯一の手段だ。

あんたは、何に挑戦する?

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