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ただの自分を見つめ直す

あんたにもあんた自身を鼓舞する言葉ってやつがあるかい?

ネットをぶらついていたら、こんなページが有ったんだよ。

はは~ん、やっぱりヒトって生き物にとって言葉ってのは非常に重要な効果をもつことがあるってことなんかな?

この記事で紹介されていた言葉「いるだけで良いのよ」。

そうか、いるだけで良いって言葉に発するだけで元気になれるって話なんだな。

はて?確かに元気になれる気がするけれども、そいつはなんでなんだっけ?

今回は言葉が俺たちにもたらす影響について考えてみる回だ。

ちっと一緒に自分の精神と言葉の相関について考えてみようぜ。

他人の目と自分の目

さっきの「いるだけで良いのよ」という言葉によって、俺たちの精神はどういう動きをしているのかってのを観察してみよう。

そもそも、俺たちは「いるだけで良い」とは普段の生活では微塵も思っていない。
仕事では成果を求められるし、プライベートでは父親としての役割、夫としての役割と言った様々な「役目」をこなしながら生きている。

その役目という切り口は自分の存在意義のような感覚につながっているものなので、必ずしも悪いものってわけじゃない。
その意味では「いるだけで良い」という言葉と同様に自己肯定感につながる感覚だと思う。

その認識に立った上で、「いるだけで良い」という言葉は俺たちの何を救っているんだろう?

役目というのは他人から求められる姿と言い換えても良いはずだ。
なら、役目という切り口を一旦脇においておいたときに、残るのは何者なのか?

他人からの目が無くなったときに残るもの。
そう、自分の目だよな。

「いるだけで良い」という言葉の先には「なりたい自分」というなんともでっかい壁がそびえ立っているってわけだ。

壁がある事による幸せ

何?
そんなでっかい壁があるってんなら、そんなの救いでもなんでもなくて絶望だろって?

ところがそうでもない。
なぜって?

だって、俺たちはさっきも言ったとおり、日々役目をこなすことで幸せを感じているって側面があるからだ。

たとえ話をしよう。
地球には重力がある。
当たり前だな。

その重力の存在によって、俺たちは空を飛ぶって自由はない。
でもその代わりに重力という制約があるからこそ、普通に地面を歩いていける。空を飛ぶ自由ではなくて、大地を歩く自由を手に入れているわけだ。

そう考えてみると、「なりたい自分」というでっかい壁は俺たちにどんな自由を与えているのか?

思うに「自分を変える自由」なんじゃないかな。

現代は指数関数的に増えていく流通情報量に伴って、激変し続けている。

ニューノーマルな生活様式はその激変の一部でしかない。

変わり続ける世界で停滞していることってのは、生きる上でとんでもないリスクを背負うだけじゃなくて、取り残される感覚を生む。

つまりは孤独だ。

「いるだけで良い」という停滞とも捉える事ができる言葉によって、俺たちは実は疾走する自分を取り戻せる。
そう言うことなのかもしれない。

なんとも不思議な感覚じゃないか?
自己肯定感を取り戻すための言葉で引き出されたのは孤独への恐怖。

自己肯定と自己否定は表裏一体ってわけだ。

より良くなるという感覚

結局のところ、「いるだけで良い」は良くなるきっかけの言葉って感じなんだろうか?

これって結構難しい。「良い」ってなんだ?

世の中の状態そのものには「良い」も「悪い」もない。
ただ、そうだという現象があるだけだ。

現象に「良い」「悪い」の意味をもたせているもの。
それが自分ってやつなんだと思う。

それこそ意味なんてのは物理的に観測できない虚構だ。
ヒトはその虚構に寄り添うことで莫大な力を手に入れてきた。
同じ意味を共有することでヒト同士で協力するという力をね。

ところが「良い」「悪い」って虚構は実のところヒトそれぞれで全然別の状態であることもままある。

そして、その状態ってのは普段は意識もしないので実態がわからない。

「いるだけで良い」という言葉は、もしかするとその状態を眺めるための土台を作ってくれるのかもしれないね。

今、ここ。
その場所を作ってくれる「いるだけで良い」。
未来、明日。
その場所から眺める未来の状態。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの明日を「いるだけで良い」の言葉の先に見つけることが出来ると思うかい?

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