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観光地への期待の作り込み

あんたは記憶に残る旅行先ってどこがある?

なんかこんなサイトを眺めてたら、日本の京都の伏見稲荷大社があんまし評価されていないってか悪い評判が広がっているってことらしい。

あれよ。
あの鳥居がズラッと並んでいる映像って何回か見たことないかい?

わりかし神秘的っつーか、特徴的な風景だからある程度人気あるんだと思っとんだけれど、実際には上のサイトのランキングではワースト8位ってことらしい。

おおうなんでだよ?

ザックリ読んでみたら、どうも混雑しすぎって理由なんだと。

え?
したら浅草雷門なんてどうなんのよ?

今回は観光地に求められているものってのを想像してみる回だ。

マスクも移動も解禁されてきている世界観での観光ってやつについて、ちっと考えてみようぜ。

俺たちが旅行に求めているもの

まずもってだ。
俺たちはなぜ旅行に行くのか?

富裕層になるほど、旅ってものに価値を見出してせっせと旅行に繰り出しているって話を聞いたことがある。

実際その辺の数字は追っかけたことはないけれど、たしかに目の届く範囲の富裕層は旅行に行く頻度が俺なんかとは比べ物にならない感じがする。

で、なんで旅行に行くんだろう?って考えてみると、やっぱり「非日常」ってのを手に入れるためなんだよな。

なんつーの?
自分が普段獲得していない経験値を捕まえに行く感じ?

俺が旅行に主体的に行ったのはカンボジアとグアムくらいな気がする。

カンボジアは実際、人生に一回くらいはアンコール・ワット見といたほうが良くね?って思って行ったんだよな。
まあ、そのアンコール・ワットの経験以上のインパクトを与えてくれた旅だった。

グアムへはスカイダイビングをしてみたいって思って行ったんだよな。

人生で一回くらいは空を飛ぶ経験をしてみたいって思って行ったんだよ。

実際、あの空気を切り裂きながら空を舞う経験ってのは他では感じたことがない。

他にも主体的ではないけれども、イタリアに当時住んでいた親戚を訪ねて、修復前の最後の晩餐を眺めたとき。
最後の晩餐そのものもインパクトが大きかったけれど、その建物の入口前に屯していたジプシーと呼ばれるホームレスのヒトたちの姿がめちゃくちゃ印象に残っているんだよな。

まさに経験値を求めている感じ。
違う言い方なら、自分の知らない現実を捕まえに行っている感じ。

シンプルに快楽を求める旅行

と言いながらシンプルに快楽を求めに行く旅行ってのもあると思う。

温泉に浸かって日頃の体調不良をなんとかしたいって旅行もあるだろうし、東京に住まっている俺にとってははるか遠くまで続く雪原なんてのも目の保養ってやつだ。

まあ、スキーなんて出来る体力はもうないけれどね。

後は美味しい食事ってのも旅行の醍醐味だよな。
俺の場合はあんまり食に対する興味ってのがないんだけれどね。
でも一般的には食事のための旅行ってのはメジャーな理由だよな。

まあ、快楽ってのもでっかい意味では経験ってことなんだろうけれどね。

伏見稲荷大社が不人気なこと

で、その経験と快楽体験を求められる旅行だけれども、なんで伏見稲荷大社はそれに応えられないって結果が出てるのか。

記事ではシンプルに混雑って原因を書いていたけれど、もっと言えばこの混雑ってものが経験と体験を阻害しているってことなんだよな。

伏見稲荷大社を訪れるヒトってのは、明らかにあの神秘的な風景を堪能したいと思って行くわけだけれども、そこがヒトで溢れかえっていたらその期待は裏切られたって思うヒトも多いだろう。

逆に浅草雷門なんてのは、ヒトがごった返している風景がめちゃくちゃ共有されているから、そのごった返しの状態そのものが観光要素になっているんだよな。

これってさ。
観光地はどういうふうに期待をされるかってのをコントロールすることが実に重要ってことだよな。

ってか、そもそも神社仏閣ってのは本質的には観光客に来てもらうのが目的じゃないから、その周辺の観光で食っているヒトたちの作戦ってことだけどね。

つまりは自分たちの街づくりをどうしたいかって思いってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

本格的に流行り病の制限が取り払われていく中で、観光地はどう経験と体験という物語を作っていけば良いんだろうな?

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